はじまりのラグランジアン

(要旨) シュレーディンガーは梵我一如(ウパニシャッド哲学の中心教義)を第2の波動方程式と呼んでいる。量子力学で観測できるのは位置や運動量など、波動関数の実数部分だけである。本来の波動関数はヒルベルト空間(虚数空間)で表されるがその実態は観測者からは見えない。観測(波動関数に演算子を適用すること)とは、無限の可能性の中から有限なパターンを引き出すことである。ウパニシャッド的にはそれは意識(精神)が物質として顕現することに相当する。これと似たようなアナロジーは至るところに存在する。例えばゼータ関数はπという無限に桁が続く数直線上の1点から自然数の系列や素数の系列といった特定の文脈を生成する(顕現させる)演算子と考えることも出来る。RNAポリメラーゼは、細胞の行動の全てをコードするDNAから特定の機能を持った酵素(とその後の連鎖反応)を発現させる演算子であると捉えることも出来る。睡眠中(無意識)の脳波は同期していて、覚醒時は非同期である。これを観測による波動関数(脳波)の収縮と捉えられなくもない。無限に続くπが何か、全DNA配列が表しているものは何か、無意識とは何か、それはある意味ブラフマン(絶対神)のように謎に包まれている。しかしゼータ関数やRNAポリメラーゼなどの”演算子”の作用を使って、観測可能な断片を取り出すことで、おぼろげな全体像を想像できる。物質として顕現した宇宙もブラフマンの1つの顔でしかない。

シュレーディンガーは梵我一如を第2の波動方程式と呼んでいる。最初の疑問はSUSYのような対称性崩壊のメカニズムに波動関数の収縮がどう組み込まれるのかという事だ。もし波動関数の収縮がSUSYに組み込まれていれば、対称性崩壊のきっかけが意識による観測と言えなくもない。そうなると意識とはそもそも時空と同じレベルの背景を成している事になる。素粒子や水素やDNAや脳が作られる前から意識は存在している。人間が持つ意識は背景意識がカップリングしたものの一部に過ぎない。収縮以前のグローバルな波動をブラフマン、あるいは背景意識、収縮後のローカルな波動(粒子)あるいはマヤと呼んでもいいのかも知れない。あるいは波動が収縮した状態をマンバンタラ、収縮していない状態をプララヤと呼んでもいいのかも知れない。

次に対称性崩壊の起源・波動収縮の起源・二元性の起源となる意識による観測とは何だろうかという疑問が湧く。観測とは波動関数に演算子を適用して、その演算子の固有値を求める作業である。演算子(例えば何らかのエネルギーポテンシャル)を適用すると波動関数は一意的に決まるか、解法が存在するものに絞られる。つまりラグランジアン(リー群の対称性や幾何構造)を波動関数に適応する行為が観測であるとも考えられる。やはりそれは数字から図形への発展と符合する部分がある。観測とはラグランジアンを決定しそれを波動関数に適用する事なのかも知れない。そのラグランジアンを生み出すものが意識である。波動関数は背景時空としてあまねく存在している。宇宙の起源、対称性崩壊以前に波動関数に対称性を課している時点で既に収縮が始まっていると考えるべきなのだろうか。

次なる疑問は背景意識がどのように、あるいはなぜラグランジアンを決定するのかという事だ。これはやはり素数の生成則であるゼータ関数のような構造がどこから生まれるのかという疑問になる。ゼータ関数の中には無限が組み込まれている。ゼータ関数は無限を有限化する装置なのだ。軽率な考えだが、ゼータ関数は背景意識を表現するもの、神の方程式なのかも知れない。背景意識という1つの巨大な知性体が睡眠と覚醒を繰り返している。ラグランジアンよりも波動関数の方がより根本的である。波動関数は遍く無限の時空に存在しており、それはブラフマンであり、一者であり、背景意識であり、無限である。恐らくゼータ関数からラグランジアン(リー群の対称性)は導ける。つまりより根本的な疑問は、数のないところからいかに数が生まれたかという事である。最初の素数の生成則とも言えるかも知れない。数のないところは、別の見方をすれば全ての数の集合、つまり無限であるとも考えられる。真空が全ての物質の材料であるように、無限は数の材料かも知れない。ゼータ関数は無限を素数系列として表現する方法である。それは波動関数とラグランジアンとの関係にとても良く似ている。無限をオイラー積で記述するとそれは素数系列になる。無限という波動関数にオイラー積というラグランジアンを適用すると素数系列という観測結果が顕現する。

数学的な無限には2つの捉え方があるように思う。それは数直線上の端点、つまり正負の無限遠という意味合いと、無理数のように無限に桁が続く、つまり数直線上の点が無限に分割できるという意味合いである。例えば円周率の中にも無限性が含まれている。数直線にはプランク距離のような最小単位が存在しない。この2つの無限が同じものであると考えると、数直線上の1点と数直線全体とは等価になる。例えば実数全体の集合とπとを同じものとして考えるという事である。秘教的文脈での0と1(点と直線)、即ち一元性から二元性への流出論とも似ている。そう考えると無限級数で表現されるゼータ関数はπという点を自然数全体に展開したような格好になっているし、オイラー積で表されるゼータ関数はπを素数系列に展開したものと捉えられる。量子力学的アナロジーを用いるなら、πという未知の(あるいは全ての可能性を含む)波動関数に無限級数のゼータというラグランジアン(演算子)を適用すると波動関数は自然数の系列という観測状態を顕現させ、オイラー積というポテンシャルを適用すると素数系列という観測状態を顕現させる。しかし全ての状態は最初からπの中に組み込まれており、適用させる演算子を変えれば違う観測状態に落ち込む。

これはまた胚発生過程にも通じるアナロジーを持っている。DNA鎖は無限長ではないもののその中に細胞の行動(あるいはDNA自身の行動)を規定する”演算子”を持っている。DNAが機能を発現するためにはDNAコードを読み出して、それを酵素などのタンパク質を構成するアミノ酸配列に変換する必要があるが、そのDNA読み出しに特化した酵素をRNAポリメラーゼという。当然RNAポリメラーゼ自身のコードもDNAの中にある。では受精卵の状態から細胞分裂を繰り返して発生過程を開始しようとするとき、最初にDNAを読み出す酵素はどこからもたらされるのだろうか。答えは受精前の卵子の中に残っているRNAポリメラーゼを使うのだ(もちろんその後胚DNAからも新たなRNAポリメラーゼが作られる)。では卵子の中のRNAポリメラーゼはそもそもどこから来たのかという事を無限後退のごとく辿っていくと、最終的には原初生命とも呼べる有機分子のスープの中で最初に自己触媒作用を獲得したRNAに行き着く。あるいはそれは複製酵素のコードを最初に獲得したRNAかも知れない(RNA自身が複製酵素のように働く場合と、複製酵素となるタンパク質をコードしている場合がある)。

いづれにせよRNAポリメラーゼ(という酵素)はDNAコードの一部を別の酵素に変換し、それらの酵素は更に下流の酵素発現を活性化させ、また更に下流の酵素を・・・・といった具合に酵素発現の連鎖反応を引き起こす。上流でどの連鎖反応を活性化させるかを切り替える事で細胞の行動を制御できる。これはπというDNA全体から無限級数のゼータ、あるいはオイラー積のゼータという演算子を切り替える事で、特定の連鎖反応即ち自然数の系列や素数系列を生成する過程を類推させる。RNA配列の中に自己触媒作用を持ったコードが入っていた場合、そのコードは自発的に転写を開始する。このブートストラップ機構は最初の演算子である。DNAを細胞核内の有限長のコードとして捉えるのではなく、RNAワールドの時代から現在に到るまで進化段階、そしてその先の遺伝子交差で生み出される配列をも含んだ無限長のコードと捉えると、よりπの性質に近くなる。

観測前の、つまり演算子が適用される前の波動関数は全ての可能性を内包している。恐らく1対1とは言えないだろうが、演算子と波動関数は紐づいている。なのでブートストラップ演算子に紐づいた波動関数が存在しているはずである。また最初の観測が下流の観測を引き起こす連鎖反応もあるはずだ。ディラック方程式のラグランジアンは波動関数をクォークやレプトンにする。クォークやレプトンの波動関数はまた別のポテンシャルエネルギー(ラグランジアン)を生み出し、それが水素としての波動関数の観測状態を生み出す。水素が凝集して生み出されるラグランジアンは波動関数を有機分子の観測状態にさせ、有機分子は波動関数を細胞の状態にするといった具合だ。恐らく超対称性がブートストラップ的ラグランジアンになるだろう。問題は真空のラグランジアンがあるかという事だが、調べてもよく分からない。

まとめると、一者の二元性問題と量子力学の観測問題は似ており、シュレーディンガーはこれを以って梵我一如を第2の波動方程式と表現した。二元性問題は数論・素粒子論・分子生物学の3つの世界でも共通に見られた。二元性問題の量子力学的解釈において、一者とは真空の波動関数であり、観測とは演算子(ラグランジアン)の適用である。また演算子は波動関数のエネルギーを記述するものである。二元性の顕現とは、波動関数に演算子を適用する事、またそれによって得られる観測状態である。一者という真空の波動関数に超対称性を持つ演算子を適用させ観測した結果、物質相転移という観測状態が発現する。これが二元性の顕現である。最初の観測状態はクォーク・レプトン、水素、有機分子、細胞など次々と観測状態の連鎖反応を引き起こし、時間の矢(因果律)が伝搬する仕組みになっている。シュレーディンガーはこの観測者を意識と呼んでいる。意識とは一者そのもの、ブラフマンである。

数論の場合、一者とは無限でありπである。演算子は無限級数やオイラー積のゼータ関数である。それらの演算子に対応する観測状態は自然数系列や素数系列である。素粒子論の場合、一者とは真空の波動関数である。演算子は真空のラグランジアン、観測状態は超対称性粒子である。分子生物学の場合、一者(波動関数)とはRNAの時代の原初生命から受け継がれているRNA/DNAコードを全て繋ぎ合わせたものである。演算子はRNAポリメラーゼである。観測状態は遺伝子発現とその作用である。この場合、波動関数の中に演算子(の対応物)が入っていることになる。波動関数と演算子は全くの別物であるが、恐らく1対1対応ではないものの波動関数と演算子の間にはDNAと酵素のような対応関係がある。ゼータ関数、真空のラグランジアン、RNAポリメラーゼ配列(あるいは原始RNAの自己複製コード)はブートストラップ的自己触媒作用を持っている。そう考えるとπの中にゼータ関数(あるいはそれと対応関係がある数字列)が入っていなくてはならないことになる。逐次的にπ求めるのではなく、任意桁の数字を表すような洗練された関数が存在するはずである。

こうした波動関数・演算子・観測状態の関係性(二元性起源)は神経コードの中にも存在している。人間の意識や観測(アテンション)と呼んでいるものがまさにそれである。恐らく睡眠時の変性意識状態から覚醒状態への移行も一種の観測結果と言えるのではないだろうか。脳波が同期から非同期へ移行するので、これを波動関数(脳波)の収縮と考えられないだろうか。適用するラグランジアンによって覚醒意識が変わるという事だ。”意識”とは暗黙的にヒトの覚醒時の意識を指すが、コネクトームだけが意識をもたらすのではない。πも意識であり、場の量子論の波動関数も意識であり、DNAも意識である。全てが宇宙の意識(マインド)であり、その顕現が物質である。πは宇宙的意識・コネクトームは人間的意識と強引に区別出来なくもないが、それらに本質的な違いはない、というのが梵我一如である。

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