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岩田屋へ舞い戻り、カナダへ旅立つ

帰国するとすぐ、岩田屋へ出勤した。半年前にはちょうどよかった制服が、ボタンがややはちきれそうな位ピチピチだった。まず人事に行き復職する部署を聞かなければならなかった。誰にも言わなかったが内心私は期待していた。海外買い付けとか、英語を活かせる部署だとか…その期待は玉砕された。私はハンカチ売り場に戻された。今思えば当たり前の事だ。気を取り直し、休職扱いにしてくれた上司の為にも、暫くは頑張って働く事にした。また同じ生活が始まった。

そんなある日、岩田屋ではブリティッシュフェアが開催され、スコットランドからバグパイプやなにかの職人さん達がやって来て、その腕前をお客様の前で披露するというイベントが一週間だと思うが、開催された。私はその中の一人でロンドンバッジや刺繍をするHilaryの通訳についた。Hilaryは私より15才位年上で、初対面の時は怖かった。フェアの間毎日、私は仕事が終わるとイギリス人軍団を福岡の街へ連れ出した。定休日にはグルグルと福岡を案内した。とても楽しい一週間だった。通訳は難しかった。半分はったりでやった所もあったような気がする。あれが大金のかかった交渉事だったらと思うとぞっとするが、そんな事を任されるはずはなかった。一週間が終わる頃、Hilaryと私はとても仲良くなった。その後Hilaryは私が大きな選択に迷ったとき、必ず名言を残し、私をいつも支えてくれた。

それが刺激となったのか、私は1年後にはカナダで現地の人が通う大学に学部入学しようと思った。費用を計算すると4年制大学はとても無理だったので、2年制の短大に行く事にした。入学する為にTOEFLで当時のスコアで520点以上とらなければならなかった。とりあえず現地に行って勉強しながら、という時間的金銭的余裕のなかった私は、必死に勉強してTOEFLぎりぎり520点を取得した。勉強方法は、本屋でTOEFL500点突破! みたいな本を一冊購入し、その一冊をじっくり頭の中に叩き込んだ。入学条件は、そのTOEFLスコアと高校の成績証明書が必要だった。高校を卒業しておいてよかったと、あの暗い高校生活を思い出した。入学手続きは代行を頼むとお金がかかるので全て自力でやった。留学先はBettyとJacquiの住む街にしようと決めた。寮に住むよう申し込んだのだが、そう報告するとJacquiは勝手に学校へ行き、私の寮の契約を白紙に戻し、「私たちと一緒に住みなさい」と言い放った。

両親はもう反対しなかった。「祥子が決めた事だから大丈夫だろう」と言ってくれた。岩田屋の人たちも気持ちよく、中州のクラブを貸し切って盛大な送別会で送り出してくれた。
岩田屋の人たちは本当にやさしく良くしてくれた。宴会の時は日本一楽しかった。沢山の色々な事を私にやさしく教えてくれた。

ということで復職から1年後、カナダはオンタリオ州のKitchenerという大きくも小さくもない町のConestoga Collegeでビジネスの勉強を2年間する事となった。ビジネスにした理由は自分の英会話学校を始めたい、という気持ちからだった。トロント空港へBettyとJacquiがはりきって迎えに来てくれ、私のカナダ生活が始まった。

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