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部分と全体

量子力学の創始者のひとりハイゼンベルクの 『部分と全体』

これまで自分が拾い集めてきた要素知識を統合する作業をしたいと考えてきたときに、ハイゼンベルクに出会うことができた。

人類にとって未知の世界であり、その描像の方法や知識の集め方、真理を追求する歩みの進め方さえも、なにもないところから道を築き上げていく偉大な先人達の姿を垣間見ることができた。

ハイゼンベルクが見てきた世界、潜り抜けてきた歴史、繰り返してきた偉大な学者達との対話、そのすべてを本人が記しているからこそ、その経験を主観的に感じとることができるとても貴重な本である。

ハイゼンベルクはプラトンの『ティマイオス』のなかの、物質の最も小さな部分についての哲学的思索に強い影響を受けており、この時代の原子物理学者や生物進化論学者は学術知識や試行方法、世界の描像の仕方、考え方といったアプローチを決定するにあたっては、各人が確固とした哲学を持っていることが、とてもよく分かった。

ハイゼンベルクは常に、全体への見通し忘れてしまっては、本当の理解はあり得ないということを力説し続けている。

訳者である山崎和夫先生の言葉を借りれば、最近の科学技術、というよりは人智一般の著しい進歩によって、学問、あるいはさらに広くの人類の社会全般が非常に細分化し、専門家していく傾向は避けがたい。このことは現代において益々その傾向が強くなっており、学術領域間の分断が起こっていることを感じる日々である。そのため全体への見通しを得る必要性を私自身感じていた。

このことの重要性、そして全体を構成する要素としての専門領域を深化させることに取り組んでいる全ての人にとって、全体への見通しと、要素と全体の繋がりを理解しないことには真の理解とは言えないということが、およそ100年前から人類にとっての課題であることを知ることができたことで、とても自信になった。

光や電子の粒子性と波動性、古典論における因果的な運動の記述と量子論における確率的な運動の記述のように、互いに排他的な性質を統合する認識論的な性質であるパウリの相補性については、性格の異なるものをお互いに排他的・独立的であるとするアリストテレスの論理学でいうところの二分割という繰り返し継続することにより単なる混沌に至るものではなく、中央を貫く秩序に至るという全体性を記述する上での重要な考え方であることも、とても重要な学びになった。

ハイゼンベルク自身はその専門分野である物理学については、部分を数学的に丁寧にやることについてはゾンマーフェルトに習い、全体の哲学を考えることについてはボーアに学んだ。戦争という狂気や荒廃に満ちたドイツにありながら、一方で原子物理学にとっては黄金期であり数々の発見を経て未知な世界が次々に明らかになっていく激動の時代を数多くの仲間達との協力や対話をしながら前進し続けた彼の人生を感じることができたことも、とても学びになった。

彼らの学術研究としての発見が少なからずその実現に関係している原子爆弾が投下された長崎において生き残った祖父と祖母が出会ったことで、私の父が生まれ、そして自分が生まれた。

そしてそんな自分が、宇宙開発という舞台で世界中の国々の人々とどのように全体としての見通しを描き、どのように要素としての知見を集め、数多くの仲間達と出会い、その世界を実現させていくのか?

まさしく目の前に突きつけられた命題を紐解くうえで、このハイゼンベルクの人生の歩みを垣間見ることができたことは、とても重要な出会いであった。

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