音楽における商業性⑪

そもそもこの記事を書き出した時のことを思い出しました。

音楽が「商業的」であること、やはり批判されやすい。

ただそのことが自分にとって「違和感」のあることだった。

全く「商業性」が無ければ、そもそも接するきっかけすらないでしょう。

もちろん売れる売れないは単なる結果論でしかない訳で、「売らんかな」で作品を作るのはやはりまずいでしょう。

ただ、「商業性」のないところで音楽が作れない、というのもまた事実。

話をかつての絵画の世界に変えてみます。

かつての絵画であれば、大金持ちが「この画家は素晴らしい」と言って、その画家のパトロンに成れば食べていけるかもしれない、もしかすると贅沢三昧な生活が送れるかもしれない。

そこで「マス」に訴えかける必要はないんですよ。小さいけれど確実な市場があるから。

でも現実問題として、現代でそういう世界はほとんどないでしょう。

そうするとやはり音楽には一定の「商業性」が必要になってくる。

もちろんこの「マス」には様々な大きさのものがあります。

少ないヘビーユーザーでやっていく、という方法もあるからです。

幅が狭くても、深さが深ければ、道は開けるんですよ。

幅を広げると、どうしても多くの人に聞かれる必要が出てくる。

ターゲットが拡がると、その分伝わりにくくなるからです。

同じエネルギーで、一点に集中してエネルギーを使うのと、多くの層を捕まえるのでは、前者の方が確実に効果がある。

もちろん、均等に力を使って「広く浅く」という考え方もありますが、こちらの方が遥かに難易度は高い。

どんな人にも聴いていただく、これって凄く難易度が高く、プロでも一握り。

で、中途半端が一番良くない。

一点への集中化したパワーもなければ、万人にそこそこ受け入れられるミュージシャンにもならない。

ここを間違えると「どっちつかず」になってしまい、結局何の意味も無くなる。

そういう意味で、音楽には「商業性」は欠かせないのかと。

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