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ナボコフ『ロリータ』はロリコン小説ではない。むしろ「少女」の反乱の小説なのかもしれない

わたしの敬愛する人のうちのひとりに、二階堂奥歯さんという人がいる。もちろん、ペンネーム。『八本脚の蝶』というブログを書いていた本の虫の女性で、10年以上前に命を絶っている。

そんな彼女がブログのなかで「少女」について話していた。曰く「少女」はこの世に存在するーそして私もそうだったー「女の子」と姿形は似ているが全く違った存在の極度に理想化された抽象的な概念であり、その性質上男性に都合よく利用されることが多い、のだそうだ。

実際、文学作品や映像作品のなかにはそんな「少女」がたくさん出てくる。私は「少女」が苦手だ。決して彼女たちそのものが悪いわけではない。そうではなくて、彼女たちを都合よく搾取しようとする気持ちが悪くて傲慢なある種の男性が嫌いなのだ。特に実在の「女の子」を「少女」と混同して理想化しているようなやつは特に虫唾が走る。

本題に入ろう。

ナボコフ『ロリータ』はロリコン向けのロリコン小説だと思われがちだが、私はこの文学の本質はそこにはないのだと思う。ナボコフはむしろ、この妙な妄想癖の大学教授(なんと、詩なんかも書いている)をけっこうバカにしていそうだ。ハンバート・ハンバートなんて珍妙な名前をつけて、「こういう自己陶酔してるタイプの、"大学教授"なんて胡散臭い肩書きのおじさんってこーんな感じだよねー」みたいにおちょくってるようにしか見えない。…まあ、これは個人の感想で本人がどう思っていたのかはわからないけれど。

とにかく、そんなナボコフの描く「ドロシー・ヘイズ」という「少女」はなんだかなかなかハンバートの思い通りにはならないのだ。そもそも、そんなにものすごい美少女ではなかったはずだし(暫く前に読んだから忘れているだけでそうだったのかもしれないが)、学校もサボるし男子とすぐいちゃつくし、口も悪いし反抗的で成長するごとにハンバートを馬鹿にし始めるし挙げ句の果てには逃亡して適当な男と結婚、出産してフツーの女(こちらは観念ではなく現実的な)になるのだ。一般的な少女のように夢の世界へと連れて行ってくれたりもしない(ハンバートの妄想内ではそのようだけど。そしてこのあたりからも、そして逃避行の頓挫からも少女が夢の世界に連れて行ってくれるなんて幻想だよーんみたいなのが伝わってくるような気がする)。そして最後には、「貧乏なんだよ金よこしなよ〜、あんたが私にしたことバラしちゃうよ?」みたいなこと言ってハンバートに殺されてしまうのだ(記憶違いだったらごめんなさい)。

ドロレスはたしかに「少女」ではあるけれど、男性に都合よく利用されないし、多分に「女の子」でもあるのだ。もちろん、ハンバートとなんら男女の関係を持たなかった、と言うわけではないのだがそれだって彼女が望む時はそうして、望まなくなったらそうしない、それだけのこと。ハンバート自身は「成長して魅力が落ちてきたかも…?」みたいなことを言うのだけど結局は負け惜しみ。

ハンバートの意思に屈さず「少女」というよりも「女の子」から「オンナ(理想的、観念的な)」ではなくより「女」らしく成長したロリータとそしてナボコフはむしろ反骨精神抜群の「少女」(の利用)に対する反対者ではないか。…まあ、最後にはハンバートに殺されちゃうんだけどそれもドロレスに対する批判、都合が悪くなったから殺した、というよりはハンバートの滑稽さを際だたせる演出のように見える。

本書はミステリとして伏線を拾いながら読む読み方が主流なようだし私もあらためて読むときはそうしたいのだが、いまの私はとりあえずこんな感じに読んでいる。

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