熱帯夜に『少年』だった人に読んでほしい_長野まゆみ『夏至南風』

長野まゆみが好き。そういうとBL好きなの?とか腐女子なの?って言われるけど、複雑な気持ちになる。(萩尾望都が好きって言った時も同じ状況になる)

知り合いに腐女子は多いので、BLにアレルギーがあるわけではないけれど、しっくりこない。(読まないのであまり知識があるわけじゃないが)BLを男性同士の恋愛作品と位置づけるなら、そもそも少女漫画や携帯小説どの恋愛メインの作品にあまり読まなかったからだと思う。

じゃあなんで長野まゆみや萩尾望都とかの少年愛の作品が好きなの?と問われたら、書かれる『少年』は『いずれ男性にそだつ子ども』ではないから。

『大人の醜さや力に抑圧され、いずれ自身もそうなることを怯え、自己嫌悪している子ども』だから。そう、それに性別は問わない。だからこそこの定義でかつて『少年』だった男性も女性もいるし、逆に『少女』だった男性も女性もいるんだろうと思う。

ここで少女をどう定義するかというと、『将来自分が力をもつ』ということを認識しているかどうかなのかなと思う。『将来自分は誰かの庇護のもとで生きるんだ』と思っている、そのための『誰か』を探したいと思っている子どもと認識したい。

だから私は過去自分が『少年』だったと思うし、かつて『少年』だった人たちに、夏の高い空や湿気に辟易しながら、熱帯夜に思いを馳せながら読んでほしいのが長野まゆみの『夏至南風』だったりする。(注エログロが苦手な方には推奨しません。以下ネタバレ含む)

『人の話を聞いたり、しゃべったりすることなんて、きみさえその気になれば、いつでも辞められるのに。』
『必要じゃないってことを、素直に認めるんだよ。きみはまだ迷ってる、』
『誰かが自分のことを愛してくえるんぢゃないかって、きみはまだ期待しているんだろう。やめてしまえよ。そんなこと、意味がないから。』
『期待なんかしていない。』
『それならいいんだ。誰もきみのことなんか愛さない。きみも愛情をかけない。これは、カンジンなことだよ。』(長野まゆみ『夏至南風』)

傷つけられた、歪まされてしまった少年たち。
嘘や誤魔化し、虚飾を大人ほどもたない彼らは、まっすぐにぶつかり合う。研磨される前の鉱物のように鋭利で、綺麗で、だからこそ痛々しい。
守るために、刃物となる。もちあった刃でお互いを傷つけあうから、より刃を磨いていく、深まる傷。
自分という存在を確立させるため、認識するために、刃物で、唇で、性器でとる一方通行のコミュニケーション。

『少年たちは消極的に再生を拒否している』とあとがきに書かれていたけれど、それは無花果というモチーフを使っているからこその表現で、『成長』や『傷の回復』を意味しているんじゃないかと思う。
誰かに愛されたいって思う自分は弱い。嫌悪すべき自己。
冷たく硬直した死体になれば、まとわりつく湿度の中で溶解し崩れていく果実のように腐れば、少年たちは大人にならない。
庭師や碧夏の母親のような、醜い力のある大人に。

そう、少年と書いているけれど、性別は関係ない。
力に脅かされ、自己を嫌悪し、大人の醜さに、自身もいずれそんな大人になることに絶望している子供だということ(子どもと書かないのはわざとだ)

腐爛した果実や海岸ホテル、礼拝堂、快楽といかがわしさの巣窟である岷浮(ミンフー)、いたずらな唇と刃物が雄弁な少年たち。
そんな虚構の世界の完成度、ひきこむ物語の展開、メタファー。
テーマを推しすぎると説教臭くなる、展開にこだわるとただのエンターテーナメントになってしまう。
その両立、バランスが長野まゆみは秀逸だなと思う。

そして、少年も少女も、大人達も登場人物はみんな残酷だけれど、一番残酷なのは著者だ。
長野まゆみが描くのは連綿と続く時間ではなく、物語。ひとつの世界、ひとつの箱庭。


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