見出し画像

自己肯定感最低女と二次創作

私は自己肯定感が恐ろしく低い。地を這っているのがデフォだ。
褒められて調子に乗る時もあるが、「調子に乗ったら罰が当たる」と怖がってすぐ正気に戻る。
が、今回はいつもより少し調子に乗って書いてみたいと思う。

私は幼い頃から絵を描くのが好きだった。美術部に入っていたこともあって小中の友人は絵を描く人がほとんどだった。
多分、世間一般からしたら私は「絵が描ける」方の人種だと考えられる。というか、(生業にしている人は別として)普通に生活していて余程の機会がない限り絵を描くことはないだろう。だから趣味で描いている私は必然的に「絵が描ける人」のはずだ。

しかし、私は絵が描ける人に囲まれて過ごしていたせいか自分が「絵を描ける」という自覚があまりない。友達の方が絵が上手かったり、センスがあったり、何となく絵を描いている私とは違っていたと思う。
おまけに中学生の頃からネットに入り浸っていたせいでプロアマ問わず上手い絵をたくさん見てきた。
自分とあまり変わらない年齢の人でもとても上手い人もいた。

そんな訳で「私って全然絵を描くの上手くないじゃん」となってしまった。
実は中学生の頃ペンタブなんかも持っていたのだが全く使いこなせなかった。大人になった今でもデジタル絵は描ける気がしない。


二次創作の小説を書き始めたのも中学生の頃からだった。
ネットでファン活動の一環として小説があると知った時は驚きだった。
どうしてか「私も出来るかもしれない」と思って書き始めた。今では絵より小説を主体として活動しているなんて10年前の私は思いもしないだろう。

絵はすぐにどういう作品か判別がつくが文章は難しい。しかし、上手い下手は別として、小説として成立しているかという点である程度の判断基準はあるだろう。
誤字脱字の有無、てにをはの正しさ、体裁が整っているか等々。
正直、私もまだまだ出来ていない。ここら辺は恐らく絵で言えばデッサンが狂っていないか、みたいなものかもしれない。けど、デッサンが実は狂っているが気付けないくらい上手いものもあるし一概には言えないだろう。
こういう話題でよく引き合いに出されるのはピカソの絵だろうか。

話が少し脱線したが、小説を書いてネットに上げると同時にたくさんの人様の小説も読んだ。
プロの小説家と見紛うほどに素敵な文章を書く人もいれば、とてもライトで万人が読みやすいような文章を書く人もいた。
会話文だけの小説ってどうなんだろうと思うこともあったが、かの有名な室生犀星の『蜜のあわれ』なんて会話劇だしそんなことは関係ないのだと学んだ。

絵と同じくたくさんの二次創作小説を読んで、やはり「私って別に文章書くの上手くないな」と思った。
いつも同じような雰囲気だったりオチだったり。起承転結があるのかどうかすら怪しかったり。説明文ばかりでつまらなかったり。

そういう自覚があったから、匿名のメッセージでそういう指摘をされた時はひどく落ち込んだものだった。「まあ自分って別にプロじゃないし」と開き直った訳だが。


しかし世の中不思議なもので、上手い絵も描ければ上手い小説を書ける人もいる。両立しているとは何事だ。天は二物を与えずなんて嘘じゃないかと思っている。いや、完全に僻みだ。きっと努力されているに違いない。

私はちゃんとした努力をしていないから全部中途半端なのだろうか。
絵や文章だけでなく、勉強とか運動とか音楽とか。じゃあ努力していなかったとして、私はどんな人生を歩んできていたのだろうかとか。

そんなことを考えれば考えるほど坩堝にはまって抜け出せなくなる。
友達は私の絵や文章を褒めてくれるが、その友達の方が何千倍何万倍も絵が上手くて評価されているし努力を怠っていない。
他人と比較することなんて良くないと分かっているが、自分の「人生」を考えると比べずにはいられなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?