本当にあった、”隷属”の実態
男女の活躍機会を平等にしよう、そのために女性の地位を引き上げようという活動が、ずぅーーーーーっと、微妙に続けられています。
私がトヨタに入社した2004年と今の2020年を比べると、、、色々な統計的にはほんの少し変わった気になりますが、肌感は正直、微妙な変化です。
なぜか、どこがボトルネックか。
私は結構明確にそれを悟っていると自負しているのですが、如何せんそれを実行する力が弱すぎる。ある意味、いつ誰が何をどうすれば良いかのアイディアが弱いという状態です。でも全然、諦めてはいません。
今日はその話は一旦置いておいて、私がこれまでの人生に感じてきた「男女不平等の世界」にフォーカスしてご紹介します。
父親は絶対権力
私が生まれ育った家族は、父と母と、父方の祖父母、私(一人っ子)の家でした。また、父は祖父の代からの稼業を継いで、叔父と2人で零細企業を経営していました。
貧しい田舎の家の出身で、学歴もない母は、家の中では最下位の身分かの如く、私は、物心がついた頃から何故母はあんなにも家族全員に1日何回も謝りながら過ごすのだろうと感じていました。
朝は一家の誰よりも早く起き、旅館かと思うような小鉢の沢山並ぶ和の朝食を作り、父親の着るものは下着や靴下まで、着用をサポート。今日の味噌汁は濃いとか薄いとか、浅漬けの塩加減への姑・小姑からの小言に耐え、娘の私の食べ方の礼儀に関して母親に姑から嫌味が飛ぶ。
「行ってらっしゃいませ」と父親を送り出すと家中の掃除洗濯が始まり、祖父が庭仕事を始めればそのサポートと後片付けを当然のように行い、私を学校に送り出し、日中は祖父母の昼食やおやつを手作りで用意し、食材を買って手の込んだ夕食を作り、帰宅する時間には玄関前で待ち構え「おかえりなさいませ」とカバンを持って家に入り、家着への着替えをサポート。
「お風呂になさいますか、お食事なさいますか」に合わせて入れたてのお風呂やできたての夕食を提供。晩酌の「お酌」に気づかないと「おい!」と叱られる。
今少し注目されている「名もなき家事」は全て母の仕事であることは言わずもがな。
そしてさらに、日曜日の過ごし方、着る服、買う家具、誰かへの贈答品、娘の習い事や進学、全てにおいて決定権は母親には微塵も無く、意見する機会すらない。全ては、父親(と、時々祖父母)が決める。決めた通りにやれなかった時、ほんの些細な誤字脱字レベルのミスが発生すると、時には土下座で「申し訳ありませんでした」と詫びる。私は母親のことは、母として女性としてとても魅力的で色んな能力を兼ね備えている素晴らしい人だと思う一方で、悔しさ、遣る瀬無さのような感情をずっと抱き、祖父母や父を憎み、「母親はこの家の奴隷みたいだ」「私は絶対にああはなりたくない」と心に誓いました。
今でもそういうことを母親と話しますが、母親曰くは「お金に困らない暮らしをくれた恩の大きさ」「男として惚れた弱さ」によって、人生を捧げると決めた。決めたから、やり遂げる。(それしか、人生の道はないと、諦めているし、諦めるという程の希望やWillは消えている)とのこと。
そのような家族の中で育った私は、まず国立大学へ進学する時点で「生意気」。次にグローバル企業の総合職になる時点で「親を捨てる薄情者」と父親からは「失敗作」という扱いをされて、その後も色々とありましたが、大きくは変わっていません。
新入社員時代の”慣習”
もう一つのエピソードは、トヨタの新入社員時代のことをご紹介します。上述のような実家から出て、トヨタの寮に入り、新入社員としてスタートした社会人生活。希望に満ち溢れていました。
「トヨタ生産方式を体得する、部品物流の世界」
これを司る部署に配属となり、そこでは、「既存生産ラインの維持」から始まり「新しい生産ラインの立ち上げ準備」を3年でできるようになろう、という感じ。
仕事のプロセス自体は、とても愚直で、日々改善することばかり。学びも多い。
だがその裏で、生産ラインの現場を支える技能員達は完全なる男社会でした。
工場長をボスとして、軍隊のように組長、班長の組織がピラミッドを成し、次に出世するのは誰か、「好き嫌い」が6割を占める世界で人間関係が構築されています。
その中で、私のチームとなったのは、まさに出世を目指す”俺様”な班長。
「俺は女だろうが容赦しない」
が口癖で
「前の担当のA(女の先輩の名前)もBも、3ヶ月で泣いたけどお前はどんだけもつかのー?」
から始まり、
「トヨタを支えてるのは現場やからな!現場がお前ら(オフィススタッフ)を使ってやっとるんだ」
とのことで、隷属の日々のスタート。
朝は7時に出社し班長へ挨拶に行き、現場が稼働している間はあらゆる異常対応に張り付き、現場同士の打ち合わせは秘書のように議事録や事務処理のために全て帯同し、現場の稼働が終わってから、海外工場とのやり取りや生産計画づくりなどのスタッフ業務を始め、帰宅するのは23時。
いわゆる「セブンイレブン」な平日を送り、土曜や日曜もパソコンをこっそり家に持ち帰って残務を処理。
現場が飲み会をするときは、脇に呼びつけられ、お酌をし、太ももに手を置かれたり肩に手を回されたり、一気飲みをさせられ、ホステス以下の扱い。上司も、周りの人は誰もそれを咎めることはしてくれませんでした。
そんな疲労困憊状態の生活だから、当然、だんだんと生理不順になり、時々来る生理痛は地獄のような辛い痛みを伴うものに。そういう日の朝、現場の班長に「生理痛がどうしても辛くて今日はお休みさせていただく」と電話をすれば「甘ちゃんやな〜だから女子はあかんのや〜生理なんてとめろよ〜〜!!」との反応。その後も、「プロジェクトが遅れたらお前のせいだからな〜〜〜死ねよ!!!」などのメール攻撃。そんなことがあったからか、成り行きか、入社後1年ほどで生理は止まってしまいました。
さらに、プロジェクト進行上でのちょっとした現場の不備を上司に報告すれば、深夜に電話がきて、明らかに酔った状態で「チクりやがって!!俺の出世を邪魔する気か!!女のくせに俺を踏み台にするとはな!今からお前の家に火〜つけたるでな!待っとけよ!!」の怒号。
などなど。挙げればきりがないほどのエピソードを積み上げ・・・
心身ともにヘトヘトになりながら、3年の隷属期間を経て、ある日、部長直属の部署の企画マンに抜擢をされました。
現場に寄り添う仕事とはお別れ。隷属生活も終了。
立場も強くなり、あの、班長をどうしてやろうか、現場のあのパワープレイをどうしてやろうか、、、、、
色々と考えた末、結局私は一切、何もせず「ご指導ありがとうございました」という言葉でお別れをしました。
なぜか。理由は二つ。
まず、報復が怖かったからです。パワハラ、セクハラ、恫喝、、、数々のシーンを見ていた周りの上司や同僚が何も動いてはくれなかった。誰も守ってくれない。恨みはかいたくない。
そして、同じように耐えたと思われる、女先輩へのちょっとしたライバル心も僅かに働きました。何事もなかったように飄々とやり過ごすことの方が、かっこよく思えていました。
あの時の自分が今目の前にいたら、そんな考えは誤りであると説得すると思うが、当時はそれがベスト解だったように思います。
そんな風に、私の後に続く後輩たちも、同じ思いをしたのかもしれません。
すぐ辞めていった後輩、鬱で休んでしまった後輩は、皆、女性です。
私は”慣習”を、断ち切れなかったのだと思います。
”隷属”は、バネになるか?
よく、不当な扱いを受けた人が、それをバネに頑張って飛躍を遂げたというエピソードを目にしますが
「”隷属”は、バネになるか?」
私の答えは、NOです。
隷属は、明らかに、傷です。
(負の感情がバネになって飛躍するという事例がもしあったとしても、そんなことがバネになっている限りは、長続きはしないと思います。)
「そんな経験があなたを造っている」
「人の痛みがわかる人間になれただろう」
・・・
何を言われても、当事者は、そんなこと、何もHappyとは思わないはずです。ただただ、もう二度と、同じ思いはしたくない。自分の心を守りたい。ということが大事なはずです。
また、私のように幼少期からの成長の過程で、深々とトラウマのように刻まれた隷属風景、それを産み出す価値観の闇の深さ・・・。
これらは、決してバネになんかならずに、「気後れ」「絶望」になるんです。それを「希望」や「勇気」に変える力は並大抵ではありません。
このへんの話が、例えば男女不平等の一因になっていること、私は身を以て証明しますし、どれだけの力をどこに込めれば「希望」を持って体も大事にしながら前進できるのか、後輩を救えなかったあの日の懺悔ではないですが、また別の記事でシェアさせて頂きます。
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