『昔話と日本人の心』ー炭焼長者ー

「あはれ」や「うらみ」を克服する人間像として河合は炭焼長者のヒロインをモデルに「意思する女性」という人間像を提唱しています。

炭焼長者は日本の昔話としてはめずらしく結婚に至る昔話です。他にも昔話の中で結婚に至る話というのはあるのですが、通常その時のヒロインは大層な不条理にひたすら耐える「耐える女性」として描かれています。いわゆる「おしん」の精神ですね。この炭焼長者に出てくるヒロインはこの「耐える女性」とは一線を画すものだと河合はいいます。では物語のあらすじを簡単に紹介します。

昔々、長者とその女房が暮らしていました。女房は麦の飯を炊いて神様や先祖に供えていました。ある日夫にも麦の飯を差し出すと「米なら食えるが麦など食えん」といってお膳を蹴り飛ばしました。女房は「わたしはここでは暮らしていけません」といってけりとばしたお膳と麦飯だけ持って家を出ていきました。
しばらくすると女房は倉の神様が「長者のところにはいられない。炭焼五郎は心も美しく働き者だ。あそこに行こうではないか」と行っているのを聞きました。女房は炭焼五郎の家を探し出しました。しばらくやり取りをしていると、神様がいうとおり炭焼五郎が親切だったので、「ぜび、嫁にして下せれ」とプロポーズし再婚します。そのあくる日かまどを見るとどのかまどにも黄金が入っていました。二人はたちまちお金持ちになったそうです。
さて前の夫である長者はだんだん貧乏になって、竹細工を売って村々を歩いていました。ある日炭焼五郎の家にやってきました。女房はまだ昔の夫の顔を覚えていたので言い値の2倍の値段で商品を買取りました。前の夫は「馬鹿な女がいたものだ」と思い大きな籠を売りに行くのですが、女房は出てきた時にもってでたお膳を見せてやると、男は恥ずかしくなって、舌を噛んで死んでしまいました。女房は男の墓を作り、毎年決まった日に麦飯を供えたのです。

河合はこのヒロインの女性について、耐える生き方を経験した後に、能動的に人生を引き受ける生き方をした女性の姿を日本人の自我を表すものとして最もふさわしいものだといいます。河合はこのヒロインがしめす自我像を「意思する女性」となづけました。(西洋の男性的な自我像を念頭に置いた命名だと思います。もちろんこれは日本人女性の自我像というわけではなく、日本人男性も含めた自我像であります。)

この物語のヒロインについて、着目したい点が何点かあります。一つ目はこのヒロインも「耐える女性」であったこと、それが、「意志する女性」へ変化したことです。一般的に日本人は受動的だと思います。受動的ではありながら運命にただ流されず、自分の意思をもつことが、「あはれ」や「うらみ」の超克につながっていくのだと思います。自分というプロセスをしっかり意識するという言い方になるでようか。

2つ目は女房は倉の神のいうことを聞いて、炭焼五郎のもとへ行っている点です。このエピソードが示しているのは、超自然的なものに対する帰依のようなものを感じます。このヒロインはアミニズム的ではありますが厚い「宗教心」を持っていてそういったものに敬虔に生きているように思えます。

3つ目は前の男の供養の仕方です。このヒロインは前の夫は供養はするものの、男と離婚する原因となった麦飯をお供えしている。前の夫に恩義とともに恨みが心の中にあるように見えます。ここから、「恩義」と「うらみ」の正反対の感情を心の中に残してあるが、その矛盾した感情をむりやり解決しないで、人生を前に進めてくあり方を見ることができます。

このヒロインのように受動的でありながらも自分の信念にかたくたち、心の中にある複雑な感情をかかえながらも、日々を「宗教心」の中に生きる。複雑な感情を忍耐しながら、自分というプロセスあるいは物語を誠実に生きること。このような人間像は、現代において、日本人が「あはれ」や「うらみ」を克服する実践的なモデルになるのではないかと感じました。

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