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宗教の問題は自分事

今、統一教会に関する話題が盛り上がっている。報道等で知る限りにおいては、看過できない状況が今も続いているようだ。しかし、統一教会のあり方の是非についてはいったんここではおいて置きたい。今回、考えたいのは宗教の問題を日本人はどこか他人事として考えていないかということだ。

われわれ日本人はどこか宗教に対してなじみがない。日曜日に教会に行くわけでもないし、毎日念仏を唱えるわけでもない。解脱を求めて出家もしていないし、宗教儀式として断食もしていない。

そして、20年位のスパンで訪れる今回のような統一教会やオウム真理教の話題に触れ、宗教団体というのはなにか危険で怪しい団体だと思い、できるだけかかわらないようにしたいと思う。そして自身を「無宗教」とすることで、宗教の話題を他人事と捉らえがちではないだろうか。

しかし、考えて欲しい、日本人は「無宗教」というけれど、死んだ後お墓に入らないという人はかなりの少数派だろう。あとお葬式をしない人も多くはない。こういった行為は宗教行為以外の何だろう。いわゆる「葬式仏教」と呼ばれるものだが、立派な宗教行為だ。

日本人の場合「葬式仏教」徒であっても、その多くの人は初詣をしたり、お賽銭をしたり、神社で二礼二拍手一礼で願い事をすると思う。仏教徒であるとともに神道徒でもあるといえるか。しかし、このような行為も宗教行為に他ならない。

上記のような行動から無宗教者は「無宗教」であっても「無神論」者とは言いがたい。ちなみに、無神論者も「神」はいないとする立派な宗教観をもっている人々だ。無神論者は宗教に対してどっちつかずの立場のことではない。

日本人が自分自身を無宗教だと思う理由に、キリスト教などの一神教の影響があると思う。「葬式仏教」には一神教にある戒律や聖典はあまりないように見えるし、そもそも他の神々を拝んでよいとする考え方は一神教にはみられないものだろう。そんな一信教の信者ではないだから「無宗教」なのだと。

そのことを考えると日本人の多くは無神論者ではなく「無宗教」という宗教の信者であると言えると思う。さてこの「信仰」は一人で支えられるものだろうか。いや、そんなことはない。日本人の「無宗教」は近くの檀家のお坊さんや氏子の人たちによって支えられている。

もちろん既存仏教やキリスト教などの働きも忘れてはいけない。葬式仏教は既存の仏教から生まれたものだし、今回の問題ではクリスチャンが統一教会を脱会したいと思う者のサポートを行ったとされる。

今、世論は宗教を規制する方向に動きがあると思う。現在のところ政権は大きな規制を考えてはいないようだが、時に宗教団体は政権にとって耳の痛い存在になり得る。これを機会に規制を強めたいと思う人も出てくる恐れもある。

多少規制を強めたところで、そんなことにはならないと思うが、仮に日本人があらゆる宗教から完全に離れてしまったときのことを考えると、日本という国がものすごく無機質な社会になるのではないだろうか。

私達の社会は意外と宗教との結びつきが強い。であるからこそ宗教のことを考える際には、他人事ではなく、自分事として考えて欲しいと思う。そして、感情を高ぶらせてしまうような情報も入ってきてしまうが、冷静かつ適切な議論が必要だろう。

参考 日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)  阿満 利麿