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【無料記事】江渡浩一郎・小山龍介対談|他者としての身体と批評性による社会接続

江渡浩一郎さんはメディアアーティストであり、またニコニコ学会βなどをはじめとしたさまざまな共創のプロジェクトを主導しています。そのなかでも「未来の運動会プロジェクト」に端を発する「スポーツ共創」について講演いただきました。

この記事では、講演に続き、小山龍介との対談をお届けします。(文・山下悠希)

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アーティストと社会との接続

小山龍介(以下、小山) アーティストは、つくる喜びに浸っているときに、どうやって社会と接続するのですか。ループに入ってしまって、接点がなくなってしまうものですか。

江渡 アーティスト単体で答えるならば、社会との接点を持たない人もいるのです。極端な場合を言えば死後に作品が発見されて、こんなすごい人がいたんだとなる。

そういう「アウトサイダー・アーティスト」の代表と言われるアーティストに「ヘンリー・ダーガー」がいます。非常に変わった、少女の絵を描く人なのですが、すごくおもしろいと思ったことが2点あるんです。

1点は、彼は最初は、絵を描いてどうやって商業的に展開しようかと考えていた形跡があることです。もう1点は、芸術史にどう接続するかを考えていた形跡があることです。

小山 なるほど。インサイダー的なやり方をやろうとしていたわけですね。

江渡 そうなんです。アウトサイダー・アートを説明するときに言われるのが、芸術的価値=業界での金銭的評価や芸術史という形の客観的な評価をいっさい考えずに、自分自身の欲望にしたがって描いてしまったアートだということです。

けれども僕は「いや、違う」と思っているんです。ヘンリー・ダーガーは、思考回路はふつうと違ったんでしょうね。なぜかというと、死ぬまでほぼ絵を公開せずに、1枚も売れなかったし、でも描き続けたわけだから、ふつうのアーティストと違うのは間違いないのです。

でも、出発点は必ずしも違わないんですよ。どうやったら売れるかを考え、芸術史の中でどう位置づけるかを考えて、でも最終的には公開せずに終わったというのが彼なんです。ですから、ある評価に至るには、金銭的評価や芸術史への接続は必須なんじゃないかなと思いました。

研究の世界ですと、メンデルがそれに近いと思っています。メンデルがさやえんどうの遺伝的な法則を調べて、それをある数学的な法則に落とし込んで発表したのが「メンデルの遺伝の法則」なんです。

おもしろいのは、意外と知られていないのですが、彼は生前まったく理解されなかったんですね。彼が論文として発表した遺伝の法則は誰ひとり評価せず、その後研究されることもなく、メンデルは単に無名なまま死んだのです。

けれども、何年後かに同じことを発見した科学者がいて、発見を公開するにあたって過去に遡って調べたところ、メンデルの発見に気がつきました。それで彼は、「私はこういう発見をしたのですが、実はメンデルがまったく同じ発見をしていた」ということを正しく指摘して公開した。そのため、その科学者の名前ではなく「メンデルの遺伝の法則」と、われわれは呼んでいるのです。

メンデルは発見を論文に書いて発表したので公的な記録として残っていて、後の人が参照できました。ですが、やっぱり死ぬまで評価されないということはあるんですよ。それは、その人の人生だけ見ると空回りに見えますよね。絵が1枚も売れなかったとか、論文を発表したけれどもいっさい評価されなかったとか。

ただ、それを未来から見たときに、参照されたり再評価されるかもしれないということを、どう自分なりに担保するのかということは、その人自身が考えなくてはいけないテーマなんだと思っています。

小山 そういう意味でいうと、社会の接続という言葉にはふたつの意味がありますね。ひとつは、まさに同時代的に売れるとか理解されるとか、有名になるとか評価されること。もうひとつは、同時代的には評価されないけれども、社会の進歩に対して何かしらのコミットをすることです。

そうすると、アウトサイダー・アートやメンデルも、一歩新しいものをきちっと提示していたので、社会にはしっかり生息していたということなんですよね。

というと、後者の社会との接続ということをアーティストはどういうふうにどんなタイミングで発見するのか。ふつうに考えると、小学校、中学校までとか小さいころに熱中して書いた状態がそのまま続いても、多分ちょっと接続しづらいと思います。天才は、そうでないことはあると思うんですけれどもね。

僕は、アーティストが発見する社会との接続は、デザイン思考でいっている観察・共感というような他人行儀な話よりは、よっぽどリアリティーがあるというかアクチュアルな感じがします。アーティストが自分のやっている熱中していることが社会的にどうなんだということを問うのは、すごく自分ごとで、切ると血が出るような気がするんですよね。

「批評」がアーティストと社会を接続する

江渡 社会との接続ということをアーティストはどういうふうにどんなタイミングで発見するのか、それは僕も知りたいです。非常に謎ですよね。あまりいい答えではないかもしれないけれども大事なのは、アートの世界には批評家がいるということです。

批評の言葉は、ちゃんと機能しています。すなわち、批評の言葉はアートマーケットに接続されていて、そこで高く評価されたものが値段が上がっていくという仕組みがあるのです。それがゆえに、批評の言葉が非常に重視されているというのがひとつありますね。

たとえば僕が教えている美大で、教授が卒業制作の前に立ってコメントを言ったり説明したりするんですが、その説明は大事オブ大事なんですよね。それがやっぱり、芸術が正しく芸術として機能していることの意味なんじゃないかと思っています。

教授の言葉はすごく怖いんですよね。つくったものに何か言われるわけですが、すごく怖いし影響力があります。やっぱり詳しいからよく見ているんです、これが。教授は、つくった本人が気づいていなかった「これってこうなんだよね」ということを言うので、「俺、そうだった」みたいな発見がありますよね。

それが自分の考えを一段高めるというか、これが大学で学ぶことの意味なんだと思った瞬間があり、それがその後の僕の考え方をちょっと変えています。自分自身が学生にコメントするときの仕方も変わりました。

小山 そういう意味でいうと、デザイン思考を批判するいろいろな文脈の中で、スペキュラティブデザイン=思弁的なデザインというのがあります。要は、そこに批評性を持てということを言う人たちがいるのです。デザイン思考には批評がないという批判がありますが、多分そこに繋がるところがあると思うんですよね。

江渡 ありますね。

小山 「便利だからいいじゃん」という出し方をしたときに、多分アーティストの作品としては「なんだこれは」みたいにめちゃくちゃ叩かれるわけですよね。人類が便利になって、なんの意味があるんだみたいなね。そういう問われ方をするときに、便利になって不便が消えたのでいいのですというレベルではないところから、急にボールがやってくる。

そういった意味で、アウトサイダー・アートも、多分批評性をものすごく持って創作の活動は取り組んでいただろうし、それがない限りは評価に繋がらない後世であったということが、ひとつあるのかなと思います。批評って何なんでしょうかね、この働きというのは。

でも、先生たちのフィードバックを受けている中で、だんだん自分の中でも批評的に自分の作品を見るみたいなことをやり始めるわけですよね。組み込まれるわけです。それ以前とそれ以後はかなり違うわけですよね。

江渡 違いますね。

小山 それは、どういうことなんでしょうかね。

江渡 なるほど、おもしろいですね。クレメント・グリーンバーグが、ジャクソン・ポロックの絵を平面性という言葉で切り取って、「これこそが近代絵画の新しい形である」と高く評価したのがきっかけで、彼の絵の値段がものすごく上がりました。

美術的に記録されているのですが、作者が生きているのにその絵が1億円を超えたのは、ジャクソン・ポロックの絵が初めてです。やっぱり、批評的役割がアーティスト本人にも必要なんですよね。

今の話は、批評的役割とアーティストが分かれている状況のことを説明したんですが、さっき言ったようなスペキュラティブデザインみたいな話は、批評的な役割を自分の中に内在させた上で、かつでも物をつくりなさいということを言わんとしていると思っています。

それはすごく難しいし、みんなよくやっているなと思うのですが、だから分裂してしまうみたいなところがあるんですよね。自分で、ここまで考えたけれどもこれは駄目なんじゃないのみたいなことを、つい思ってしまうのです。

でもアーティスト的に考えたらそれは駄目です。ここまでいいと思ったらゴールまで走らないと、アーティストではない。ですが、ここまでは批評的に考え、でもここまでいったらストッパーを外して最後まで走るみたいなことをやらなくてはいけなくて、それがけっこう難しいとは思います。

小山 批評性って、大体ストップになりますからね。駄目だ、という。批判と批評はもちろん違うんですけれども、やっぱりどこかでストップをかけるというところでいうと、アーティストの思考回路とは真逆のことになるのでしょうね。

江渡 そうなんです。多くの場合、デザイナーの思考回路ともやっぱりずれるんですよね。

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アーティストの中にある批評家

小山 批評は自分を見る客観的な目ですが、批評の対象を作品にしてしまうと、分裂はきついと思うんです。つくった傍から否定する、批判する、批評するというのはきつい。

でも、僕は、アーティストの中にある批評家というのは、なんでこんなことに熱中しているんだろうという、自分という人物に対する批評性なんじゃないかと思います。自分の人間性や指向性や趣味といったものに対するものすごく飽くなき関心というのは、アーティストは普通の人に比べるとずいぶん持っているんだと思うのです。

批評性が自分に向いたときに、実は共存が可能です。なんで今俺はこれに熱中しているんだろうというのを、ふと思ったときに、ではこういうこともやればいいんじゃないか、こういうこともできそうだと展開していけます。そう考えると、実はストッパーじゃなくて駆動させる力としての批評というのもあると思います。

江渡 なるほどね、あり得ますね。とはいえ、自分自身がそれに近い状況になったことを想定して話をすると、その状況はきつくないかというと多分きついと思っています。僕自身の受け止め方でいうと、次のステップにいったというよりは、今の自分がいる状況から追い出されたというふうに見えると思うのです。

自分自身がたとえばニコニコ学会をやっていて、共創型のイノベーションになり未来の運動会をやり次のというときに、批評的に捉えて、次はこうするべきであるというふうに公の場では話します。ですが、自分自身をこうやって見ると、むしろここにいられなくなってしまったというふうに見えるんですよね。

傍から見ると、新しい対象を探して常に発展していっているように見えるかもしれないですが、主観的にはどんどん居場所を失っていると見えて、その違いはやっぱりおもしろいです。

小山 それは、前進しているように見えて実は後退しているかもしれないですね。

江渡 ベンヤミンの天使は常に後ろ向きに進んでいく、というのがありますよね。

小山 追い出されつつ、どんどん自分の根源に追い詰められているという言い方もできるけれども、深くもぐりこんでいる、ディープダイブしているとも言えます。どんどんネタを出せば出すほど、さらに自分の中に掘り下げていかないといけないということですよね。

江渡 そうですね。要らないものを捨てていくということです。本当はここが大事だったということをもう一回見直した上で、 要るところをまたもう一回別に掘り下げ直しています。

小山 批評性は、もしかしたら垂直運動なのかもしれないですね。

江渡 その可能性はありますね。

小山 確かに、批評で領域が広がるというよりは、一回抽象に上げておいて具体をどう掘り下げていくかみたいな、こういう(上下に手を振る)運動なんですね。

アーティストは自分の中にいる他人に出会う

小山 共創というと、ある種の場を共有しているという言い方をします。てんでバラバラの人がというよりは、この運動会という場の中で生まれている共創があるとか場が重要だという話の中で、西谷哲学などを参照していくと、西谷哲学の場合は自分をずっと掘り下げていくと、そこに他人と出会うわけですよね。底の底で。

さっきの批評じゃないですけれども、ずっと底を探っていくと、アーティストというのは自分の中にいる他人に出会うんじゃないか。他人のような、自分なのに自分じゃないような変なものがあって、実はそこが社会との接続。

ユング的に言うと、シンクロニシティ的なもので同時代で起こっているものが、なぜか部屋の中で一人突き詰めていたのに、何か社会の動きと連動しているみたいなものにアーティストが突き当たっていく。だから、自分を掘り下げていくということで社会と接続する。

だからアウトサイダー・アートというのも成立するんだという、すごく乱暴なわかったようなわからないような説明になってしまうんですけれども、そういったことでいったときに、スポーツ共創で一番いいのは運動性だと思うんですよね。

自分の身体が他者になる瞬間に批評性を生む

小山 運動は自分の思いどおりになるところとならないところが出て、自分の身体というのはものすごく他者なんですよね。

江渡 そうですね。

小山 スポーツをやって、自分は綱引きのふりを演じているけれども他人から見るとバレバレみたいなときに、身体がすごく他者になる瞬間があるんだと思います。僕は、それが批評性を生んでいるんだと思うのです。

そういう意味でいうと、ネットをベースにしているニコニコ学会には、あくまで人から理解されないこだわりみたいなところでの他者性というのがあります。とはいえ、そこが全面に出てくるというよりは、それがまた他の人から見ておもしろいみたいな批評のあり方です。

一方、未来の運動会は、自分の身体という自分の中での、すごくリアルタイムでアクチュアルで今起こっている出来事で、でも自分がいかんともしがたいものと当たって、それがスポーツというふうに消化されるところの批評性があると思ったんですよね。

江渡 あるんだけれども、僕は、もうちょっとあってほしいなというのが正直な感想です。なぜかというと、やはり「未来の運動会」というふうに運動会というところにいったん着地させているので、やっぱり「運動会」がキーワードになっているんですよね。

ゲームなので勝ち負けを定義するんです。それが未来の運動会の1個のストロングポイントであり同時にウイークポイントなのです。非常にわかりやすく一般性を備えやすくて、誰もが理解しやすいという反面、身体の批評性がそこまで織り込まれない可能性があります。

エア綱引きに関してはおっしゃるとおり、ある意味批評的な作品というか種目になったんですよね。でも、そこまで批評的な作品はそんなに多くはありません。もうちょっと多くてもいいかなというのを今のところ思っていますが、まだそこまでないのでやりたいですね。

ダンスとかそういったものは、基本的にルールがないから別に勝ち負けはない。運動会だと、誰もが参加できて一定レベル楽しめるという大前提があるので、みんなそれにしたがってルールをつくります。ですが、ダンスだとそれがないから、みんなすごく突き詰めて考えるし、そこに身体への批評性が生まれますよね。あれがおもしろかったです。

未来の運動会をやっていて、けっこう良かったなと思っているのは、YCAMみたいなアートの施設、特にメディアアートの施設とのコラボレーションで生まれた企画なんですよね。すごく経験豊富なアーティストサポートを行っていた集団が、前面的にサポートして実現しています。

その中で大脇理智さんというダンサーというかパフォーマーなのですが、テクノロジーにも非常に強い。普段はYCAMのエンジニアとして働いています。彼は、極めて安価にかつ精度良くモーションキャプチャーが実現できる機械を自分で開発してつくったりしているのです。ですから、YCAMはそういう能力がある美術館なのですけれども、その点がすごい。

大脇理智さんが、未来の運動会のオープニングパフォーマンスを考えたので、やってみましょうといってやったんです。それがすごくおもしろかった。40人ぐらいがある空間の中にいて、頭の中で二人を思い浮かべる。その二人が視覚の中の右端と左端になるように動かす。全員が一定のルールで動いているということは明らかにわかるのに、全体としてはすごくランダムな動きに見えて、傍から見ているとすごく不思議な感じになるのです。

ダンスの世界は、そういういろいろなパフォーマンスで新しい世界をつくっている人がいるんだなというのは、そのときすごく感心しましたね。

小山 それはもう、上から見ているある種の批評性というか、自分たちがどう演じているかというのを外の視点から見直していく中で、おもしろいとか今の運動がすごく弱いなみたいなことを感じながらやるということなんですよね。

江渡 ありますね。

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マインドフルネスで身体性を取り戻す

小山 自分の身体が他者になる瞬間の批評性が、さっきのアーティストの社会との接続のところですごく働いてくる批評性とも繋がっているとすると、これが批評性を備えた社会とどんどん接続をしていくものに発展していったときに、運動会というのは将来はどんなものになるんでしょうかね。

共創イノベーション自体の可能性は、ものすごくいっぱいあると思うんですけれども、この領域に絞り込んだときにどんな発展があるのか、また応用分野があるのでしょうか。

江渡 僕が最近思ったことを言うと、「マインドフルネス」は身体性みたいなことを取り戻す運動のひとつだと思っています。日本語でいう「禅」をアメリカ的に解釈してかつ現代にインストールし直したのが、マインドフルネスなのかなと思っているんです。

マインドフルネスはもうだいぶキーワードになっていて、当たり前じゃんて言われるかもしれません。けれども、テクノロジーや研究の世界でもけっこうキーワードになっていて、マインドフルネスをいかに実現するか支援するのかみたいなことは、テクノロジーの世界で真面目に研究されています。

なおかつ、本当に大真面目に「これがマインドフルネスを支援するデバイスです、システムです、ソフトウエアです」みたいな形で売られています。マーケット的にも、すごく広がっているんですよね。

1個おもしろいのは、禅はもともと日本の思想なのにアメリカが強いから、それを自分たちなりに翻訳して落とし込んで、かつマーケットに接続して、テクノロジーで支援して、願わくば上場するみたいなことを多分考えているんでしょうね。

未来の運動会みたいに共創で、ある新しい何かルールをつくって、それがもしかしたら一般化するかみたいなこと、この運動そのものを1個の企業の活動に収められるかというと、不可能だと思うのです。

だからこそ、われわれは非営利というか、みんな未来の運動会という名前を使っていろいろやりましょうというふうに言っているし、中心となる団体も会社ではなくて一般社団法人にしています。

でも、われわれが気づいていないだけで、もしかしたらアメリカがうまい具合にそれのプロセスをとって、すごくかっこいいキーワードを思いついて、スポーツ・クリエイティブ・カンパニーとかをつくって上場するかもしれませんね。

小山 そこのビジネスのつくり方はすごいですよね。ちょっとそれで思ったのは、マインドフルネスは禅から生まれています。でも、やっぱりアメリカはおもしろいなと思うのは、身体をどう制御するのかというニュアンスになっていく。

たとえばApple Watchで呼吸を整えましょうみたいな、これは当然マインドフルネスの流れの中で加わった機能です。心拍数などいろいろなものを測りながら、「落ち着きました」というふうに言われます。身体と自分の精神がすごく分かれていて、身体制御装置になっている。

私は、実は最近血糖値を測るセンサーを付けているんです。身体コントロールとして血糖値をコントロールすることで自分の精神状態を調整していく。こういった世界を突き詰めていくアメリカでは、これからのテクノロジーの進化を含めてすごいことが多分起こってきます。

ただそのときに、運動の制御手法が、実は日本の身体作法的なところをもう一回参照する機会があるのではと思うんです。マインドフルネスは落ち着かせるところだけですが、「未来の運動会」は運動ですよね。激しいですもんね。

江渡 そうですね。

未来の運動会バージョン2が出現する?

小山 私は今お能をやっているんですけれども、能の型をやると、自分の身体がまるで他人のもののように思えるんですよね。言われたとおりにうまく動かないんです。それを体験しながら、自分の身体を「型」という批評性で制御し、もう一回再構築し直すというやり方なのです。

そういう、身体に批評性を持ち込んで自分の身体をもう一回再構築していく方法として、マインドフルネスが静的なものだとすると今度は身体運動的なところのそういうものに、もしかしたらいくのかと思っています。もしくは、ヨガがすでにそれを実現しているのでしょう。

そうすると、一定のルールの中で自分をどう制御するかみたいなことをかなり意識させるような、いろいろなゲームなり種目が運動会で出てきたときに、「未来の運動会バージョン2」が出てくる。今はまだ現在の運動会のメタファーの中でやっているものが、「これ、今まで運動会と呼んでいたものと全然違うね」という領域にポンと跳ね上がるみたいなことはあるかなと思います。

江渡 それは相当おもしろいですね。なぜ「未来の運動会」を選んだのかという話をちょっとすると、多分未来も運動会はあるだろうと思ったからなんですよね。最初は、「未来の普通の運動会」という名前にしていたのですが、たとえば50年後や30年後にも確実に、小学校は残っているだろうと思ったんです。

もしそうなのであれば、運動会はおそらく変わらないだろうと考えたんですね。ということは、そこをトリガーにほかの要素は変わっているけれども運動会だけは変わっていない。つまり、集まってみんなで体を動かすというのが変わっていないとしたら、そこにいろいろな要素を取り込むことによって、未来社会を考え直すことができるのではないかと考えたのです。

でも、今の話を聞いていて、思った以上に変わるかもしれないと思いました。もしかしたら、物理的な小学校はなくなるかもしれませんね。僕は、ちょっと前まで絶対なくならないと確信していたんですが、この数カ月で揺らぎました。

各々の小学生は家にいて、バーチャルリアリティーで登校して、友だちと遊ぶのもバーチャルリアリティーの空間の中。それで、実際の校舎はあるケースもあるし無いケースもあるみたいなことになるかもしれないと思ったりしました。

だけどそのときに、運動会はどうなんでしょうね。運動会には運動会の社会的役割があるのだと思います。それがなければ保てない何らかの社会的秩序なり機能があって、だから必要とされてやっている。

それは何なんだろうということと、もしバーチャルが基本になった場合、何が運動会の役割を果たすことになるんだろうということは、今のところわからないです。

小山 時間がきましたが、何かコメントがもしあれば。

江渡 超おもしろかったですね。身体が他人であるというのは、まったく本当にそのとおりです。今のところまだ、そこまで考え方が至っていないと思いますが、今後変わるでしょうね。

今日のこの話を聞いて、本当の意味で、身体は他者だということを考えないと実現できないような何かがまたやってくるというのは、すごく確実に言えると思います。

小山 計測もそのひとつですけれども、他者性をどんどん加速させるテクノロジーなどで自分をコントロールできない無意識が計測されてしまうと、「お前はなんにもわかっていない」とか、「コントロールできていない」ということを、いよいよ突きつけられるわけですね。

江渡 それをやるのは、やっぱりバーチャル空間の運動会なんでしょうね。やりたくなってきました。

江渡浩一郎
産業技術総合研究所 主任研究員/慶應義塾大学SFC 特別招聘教授/メディアアーティスト

東京大学大学院情報理工学系研究科博士課程修了。
博士(情報理工学)。2011年、ニコニコ学会βを立ち上げる。
ニコニコ学会βは、グッドデザイン賞ベスト100、アルス・エレクトロニカ賞を受賞。
産総研では「利用者参画によるサービスの構築・運用」を テーマに研究を続ける。
東京藝術大学美術学部デザイン科非常勤講師、多摩大学情報社会学研究所客員研究員を兼任。

主な著書に『ニコニコ学会βのつくりかた』、『進化するアカデミア』、『ニコニコ学会βを研究してみた』、『パターン、Wiki、XP』。

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