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人生は会員制

大学に入ってからしばらく、友達ができなかった。

医学部の運動部に入ってみたが、近い世代のほとんどは仲良くなる気がしないタイプの人間だった。話していて退屈だったし、自分より下の人間を見つけると目が輝き、楽しそうに悪口で盛り上がり、特定の標的を決めていじめるような連中が多かった。偶然にもそういう時代、場所だった。最初はうまくやろうと頑張ってみたが、やがて孤立し、しばしば自分も攻撃の標的になった。他に属すべきコミュニティは見つからず、医学部は流動性が皆無の閉鎖社会であるため、逃げ場はなく、あれは結構きつかった。

そんなわけで大学の最初の3年ほど、休日に遊ぶ相手がおらず、飲み会にも呼ばれず、本を読んで過ごすことが多かった。自分の人間性に問題があるんじゃないかと悩んだりもしたが、その後、いい感じの人々を発掘し、発掘され、仲良くなっていったりして、6年で卒業する時には豊かな関係がいくつも築かれた。加えて当時、高校時代の知り合いに久しぶりに会うと、感じの良さ、共に過ごす時間の楽しさに衝撃を受けた。その頃から、自分が親しく関わることのできる人間の性質について、よく考えるようになった。当時の友人の言葉であるが「人生は会員制」なのである、と。

人生は会員制。自分の人生の会員になるためには、相応の資格が必要である。臨床研究の用語でいうとインクルージョンクライテリア(組み入れ基準)と、エクスクルージョンクライテリア(除外基準)が存在する。特定の資質を持っている人間とは仲良くしたいし、特定の性質を持つ人間とは関わりたくない。選ぶのは向こうも同じで、自分もまた選ばれる対象である。それゆえ、条件がマッチした時のみ親しい関係が生まれる。友人関係、男女の関係、親戚付き合いなど、関係の形は多々あれど、適用されるルールはほとんど共通している。関わりたい人と、関わるのだ。

ハイパーメディアクリエイター高城剛はいう、携帯電話の連絡帳は50人以下に抑えるべきであると。過度なネットワーキングは人生の時間を奪い、トラブルを呼び込む。厳選された50人。これが目安になった。親類や仕事の関係を含めてである。親しくする人は50人いれば充分。それ以外は連絡が取れなくても困らない。

例えば家族5人、親戚10人、仕事15人、学生時代からの友人10人、その他10人。それ以外は不要。厳選する過程で、己の価値観を見つめ直す機会になる。「こいつと連絡とらなくても、別に困んねえな」という気づきが、自分の自由度や生産性を高める。時が経つと自分も変わるし、相手も変わる。それゆえ関係性も変わるので、ときどきメンバーの入れ替わりが発生するというのもポイントである。相手に関わるのにふさわしい人間になれるよう自分は心がけるべきだし、明言はしなくとも、相手にもそのように振る舞ってもらうことを求めてよいと思う。

相手に要求する基準として、私の場合は「面白さ」が最優先される。「格好良さ」も重要だが、「いい人さ」の方が重要である気がする。他人を貶めるやつ、傷つけるやつは好きじゃない。そして、「自分と向き合えるタイプ」じゃないと、そもそも話が合わない。本音を全然出さない不誠実な人間も仲良くしたくない。関わる人間は、自分の人間性の鏡である。自分も、仲間も、ある程度の己の理想を体現したような人間であってほしい。そういうことを考えている気がする。

そんな感じで暮らしている自分は現在35歳だが、形成された人間関係には満足している。久しぶりに会った友人と過ごすと、だいたい居心地が良く、楽しい。このクオリティを維持しつつ、老後を迎えることができたら僥倖である。

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