「日本人なのに日本のことを知らなくて恥ずかしい」について

「日本人なのに日本のことを知らなくて恥ずかしい」
海外経験からそのように感じ、日本の歴史・文化を学ぶ人は多いと思う。
 
しかし、いくつか疑問が湧く。


文化学習に対する疑問

まず文化であるが、例えば着物や和歌や茶の湯をなぜ「日本のもの」と思えているのかということ。
日本人口のうち、それらを嗜む人の割合はものすごく小さいはずだ。
ならば「日本のもの」というより「好事家のもの」と捉えたほうが実情に合っているのではないか。
もう少し正確に言うと「旧時代の上流階級文化」であろう。それでも、「それらはうっすら様々な事柄に影響している」と言うことは不可能ではないかもしれない。とはいえ、そこに日本を代表させるのはかなり無理があるのではないか。

歴史学習に対する疑問

次に歴史であるが、日本史は膨大であり、学ぶということは特定の時代なり現象なりを学ぶわけで、取捨選択が働く。
この選択の段階で何らかの誘導の力が作用しているのではないかという疑問がありうると思う。
また、そうやって自分が選択したものを、無自覚に日本史の代表例として認識してしまう陥穽が存在するのではないかと思う。

学びの実用性に関する疑問

そして、文化にせよ歴史にせよ、それを学ぶことの実用的意味は何なのだろうかという疑問がわく。
これらを学ぶのは必要性を感じたからだろう。
例えば現地の人と話していて自国のことをうまく説明できなかった、というのが必要性を痛感する典型的なシーンだと思う。
次にこうならないために学ぼうと人は思うのだろう。
相手が日本事情を問うてきた際にちゃんと答えることができるのが目標であるわけだ。
 
とはいえ、相手といってもその性質は様々だ。
アメリカ人は等しくアメリカ人であるわけではない。
1キロ四方1万人の都市に住むニューヨーカーと、1キロ四方に我が家だけのネブラスカ州の住人とでは事情が全く異なる。
その人たちに同じように茶道や秀吉について語るのだろうか?たぶん、双方とも同じように興味がないと思う。
彼らが日本人に求めるものは「代表的日本文化」でも「代表的日本史エピソード」でもない。
自分たちの状況と関連付けられる類似事例こそ興味を持って聞きたがるだろうと思う。それは同国人の場合だって同じだろう。

話題の一例

真面目な雑談なら、例えばネブラスカの住人ならば、東北の集団就職のことなどを話してみるといいかもしれない。田舎という共通項があるから、少なくとも秀吉よりは相手も興味を持ってくれるだろう。そうすれば「いや、ここらは事情が違うんだよ」などと返してくれるかもしれない(ドイツ系ロシア人の話とかがあったと思う)。
ニューヨーカーに日本事情を話すなら、タワーマンション乱立問題などはどうだろう。ニューヨークは都会なのだから、人口流出問題よりも都市問題を提示したほうが興味を持ってくれるだろうと思う。

結論

こういったことは別段「日本文化」や「日本史」の学習というわけではなく、日ごろ見聞きするものの蓄積というだけの話だ。
「自国文化の学習」と肩ひじ張る必要はない。

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