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カニエの福音:サンデーサービスをいまだ体験していないすべての人たちへ 【対談 ムラカミカイエ×若林恵】

かねてから親交のあるクリエイティブディレクターのムラカミカイエと若林恵。コロナ禍が深刻化する前、2019年の暮れにとある仕事で出会った際、会うなりムラカミは、見て来たばかりのカニエ・ウェストの《サンデーサービス》について、興奮気味に語り出した。聞けば「ビーチェラは、過去のもの」とさえ言うではないか。その真意を聞きただすべく、若林がムラカミを招いて対談。長年音楽界のみならず多方面に騒動を巻き起こし、ときに失笑、ときに罵倒を買ってきた「カニエという問題」をさまざまな論点から検証してみた。【*本対談は2019年末に収録されたものです】

【目次】
Homecoming を超えた?
規範との戦い
ローマ法王の求められかた
SNSドリブンな宗教改革
テイラー事件のあとさき
キム・アルメニア・南京
受難曲としてのカニエ史


撮影:間部百合
2019年12月27日に黒鳥福祉センターにて収録

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KAIE MURAKAMI|1974年、静岡県生まれ。1994年、株式会社三宅デザイン事務所に入社。ファッション、プロダクト、広告など様々なデザイン業務に係る。2001年に独立、2003年にブランディングカンパニー、SIMONE INC.を設立。ルイ・ヴィトン、資生堂、三越伊勢丹、メルセデスベンツ他、国内外の企業ブランディング、コンサルティングを手がける。
《サンデーサービス》を受けるかたちで制作されたゴスペルアルバム「Jesus is King」


Homecoming を超えた?


──本日はお忙しいところありがとうございます。今日は、村上さんとカニエのお話をしようとお呼びたてさせていただいたんですが、というのも、先日お会いしたときに、カニエの《サンデーサービス》を生で観て来たとおっしゃってて。しかも
が非常に良かったと、かなり興奮気味に仰ってて。「ビヨンセの『Homecoming』を超えてるよ」と。で、こちらとしましては「んなバカな」と思うところもあって(笑)、今日はじっくり、その凄さをお伺いしようと。

カイエ(以下K)いいですね。

──ヒューストンで観たんですよね? YouTubeに上がっているこのコンサートですよね。

K そうです。

2019年11月17日にテキサス州ヒューストンで開催された《サンデーサービス》。43分20秒くらいから動画がスタートします。


──そもそもの話なんですけど、何しにヒューストン行ったんですか。

K たまたま出張がありまして。毎回どこかに仕事で行くたびにそこで観れそうなライブを探すようにしてるんです。で、今回は出張先がニューオリンズだったので、そこで観れそうなものがないかと探してたんです。ニューオリンズからですとアトランタくらいまでは飛行機で気軽に行ける範囲なので、わーっと探してたら、「おや?」と。

──それこそ、ベルリンでカーターズのライブを観たって話を前に聞かされたこともあったんですけど、そのときもカイエさん、ライブの良し悪しではなくて「カーターズのマーチャンダイジングがすごい!」って変なところに感心してて、ものすごい種類があって数えたら着るものだけでも60〜70パターンくらいあった、と。

K そうそう。ボディの種類とかも豊富で驚いちゃって。つい数えてしまいました(笑)。

──で、今回のチケットは普通にチケットマスターみたいなチケット販売サイトで買ったわけですか。

K はじめにチケットマスターで探してたら、ミーゴスがニューオリンズにくることがわかって「ミーゴス見たことないから、見たいな」と思ってたんです。ところが《NME》のサイトを見たら《サンデー・サービス》が行われると書いてあって、いま観ておくならこっちだろう、と。ニューオリンズにいる友人がチケットを取ってくれたんですけど、そのときはまだ金額を聞いてなかったんですけど、基本的には、タダなんですって。

──そうなんですね。

K 基本的にはタダなんですが、ただ争奪戦みたいになってはいて、結局200ドルぐらいは払ったみたいです。最終的には、500ドルぐらいまで価格が吊り上がったみたいなんですが。

──チケットは、そうするといわゆるオンラインのチケット販売店では売ってないってこと?

K 告知はしてたけど、販売自体はしてなかったですね、僕が見たときは。

──会場は「レイクウッドチャーチ」というところですけど、これ、教会なんですか?

K ヒューストンの中心部から車で10分ぐらいのところなんですが、僕も知らなかったんですけど施設自体は「ヒューストン・ロケッツ」っていうNBAのチームの前の本拠地だったらしいんですよ。

──ですよね。映像で観ると、普通のアリーナっぽいですもん。

K そこを教会が買い取ったものなんです。

──ええっ。教会が?

K ほら、アメリカだとテレビ説教師って人気あるじゃないですか。「Televangelist」っていう言い方をするんですが、そのなかでも最も影響力があると言われているジョエル・オスティーンっていう人がいる教会なんですよ。

──この動画の途中にも途中で説教タイムがありますよね。あそこで説教をしていた人ですかね。

K そうそう。本当にものすごい人気らしくて、調べたら日本でも本が出版されていましたよ。

──そうなんだ。ちょっと調べていいすか?

K ありました?

──はいはい。『あなたはできる 〜運命が変わる7つのステップ』。すごいな。PHP研究所が刊行してますね。ついでにツイッターのフォロワー数ですが、900万人以上いますね。


K それくらいの人ともなると、もう自前でアリーナを構えちゃうわけです。

──はあ。

K 基本は毎週礼拝をやってるはずなんですが、それ以外にも例えばハリケーンがあったときなんかの避難所になっていたりと、そういう場所でもあるんです。ここ自体も一回水没しちゃったことがあるそうなんですが。

──そういう場所でのカニエというわけで、どうでした? まずはお客さんの反応は?

K カニエのライブを観るのは、今回で4回目なんです。一番最初が「Yeezus」のときで、その次が「Life of Pablo」。その間に一度フェスティバルで観て、今回が4回目。で、今回、YouTubeに上がってる映像を見てもわかるんですが、開演が40分くらい押してますよね。

──そうですね。

K これも、観客が全部入るのを待ってからスタートするっていう割と道徳的な始まり方をするということらしく(笑)。

──他のお客さんからしたら「いつ始まるんだよ」という。

K そう。だから、会場入ったときはガラガラだなと思ったら、始まるタイミングでは客席は全部埋まってましたね。

──スタートは何時ですか?

K 実際始まったのが17時くらいかな。普通のライブより全然早い時間です。

──もちろん日曜日、ですよね?

K そうです。

──《サンデーサービス》って言うくらいですから、基本日曜開催なんですよね?

K 一応そうらしいんですけど、場所によって例外的に金曜日にやったり土曜日にやったりする場合もあるみたいです。どれくらいの頻度でやってるのか、調べてみたんですよ。直近の2、3カ月くらいのスケジュールを見てみたら、ほぼ毎週やってるんです。ですから、2019年だけでもおそらくトータルで50回くらいやってることになるんじゃないかと思います。

上:ジャスティン・ビーバーも《サンデーサービス》に参加。2020年2月24日 下:2020年3月1日にパリで行なった《サンデーサービス》。ピアノ1台と声だけによる極めてシンプルなセットに回帰。Soul Ⅱ Soul "Keep on Movin'"のカバーがなかなか沁みる(1:09:30〜)


規範との戦い


──カニエのえらいのは、なんと言ってもよく働くことですね。

K いや、ほんとに。だって2019年の1月からやってるんですよ、これ。コーチェラで話題になる前からやってますからね。コーチェラ以前はそんなに頻度は高くなかったですが、コーチェラ以降は加速度的に回数が増えています。特に9月以降がすごかったです。ほぼ毎週の《サンデーサービス》に加えて、オペラを2回やったりして。

──出た。問題のオペラ。その話は、ちょっと後でするとして《サンデーサービス》はほんとにすごいんですか?

K すごいです。

──ほんとに?

K ほんとですよ。ブラックミュージックは大好きなので、古いものから新しいものまでできるだけ万遍なく聴くようにはしていて、ライブもできる限り観るようにしてきたつもりですが、JB'sあたりからマイケル・ジャクソンやプリンスへと流れていくブラックミュージックのライブの形式ってありますよね。

──はい。

K それがポピュラー音楽にどんどん近づいていってより大きな資本が入ってくることでブラックミュージックのコンサートもメガ化していくことになるんだと思うんですが、その頂点に一昨年のビヨンセのコーチェラのショーがあったとすると、カニエの《サンデーサービス》は、ある意味、そうした流れを踏まえながらも、そうしたコンサートのあり方そのものを更新した感じがするんです。

──はあ。

K 例えば、これまでのライブコンサートってアルバムが出て、そのプロモーションを兼ねてツアーするという建て付けじゃないですか。でも《サンデーサービス》においてはアルバムとライブの関係がむしろ逆で、ライブがずっと進化しながら継続している状況が先にあって、それをリリースが後追いしているというか。しかも、時系列を追ってライブの映像を見ていくと、どんどん変化しているんですね。レパートリーやアレンジやカニエ自身の立ち位置なんかも。最初の方はわりと真ん中にいたカニエが、どんどん存在感を消していっているのがわかります。

──従来のライブコンサートの形式だと、だいたいツアーごとにセットリストが決まっていて、それを基本再演していくのが通常だと思うんですが、そうした形式を転倒させちゃってるということですよね。逆に言えば、ライブというものの原初的なところに戻ってるとも言えそうな。

K ですね。

──動画を見ていて一番笑ったのは、カニエがラップするところで、自分の曲のくせに歌詞をスマホで観ながら歌ってるところです。

K あれも、どうも歌詞をどんどんアップデートしてるみたいなんです。とくに昔に書いた曲の歌詞で、神の教えに背くようなところがある場合は、書き換えてるそうなんです。

──なるほど。記憶力が悪いんではなく(笑)。にしても、スマホを見ながら歌ってるのって、ある意味ラジカルだな、って気もするんですよね。たとえ歌詞を覚えきれてなかったとしても、ビヨンセだったら絶対やらないじゃないですか。

K やらないでしょうね。

──そういう、なんというか、脇が甘いというか、天然というか、そういうところはカニエのすごいところだと思いますし、もしかしたらそれさえも「あえて」なのかもしれないですけど、カニエのキャリア全体を見回して改めて思うのは、「それフツーはありえないでしょ」とか「フツーやんないっしょ」っていうこと、つまり、これまでの「norm」(規範)っていうんですかね、当たり前と思われている規範というかコードにあえてチャレンジしてきたんだな、ってことに気づくんです。

K カニエの最初の3枚、いわゆる大学3部作というのは、良くも悪しくも、これまでのアメリカのショービズのフォーマットにのっとった優秀な作品で、ファンが「オールドカニエ」って呼ぶのはここなんですが、自分のなかで、本当のカニエが始まったなと思うのは「808s & Heartbreak」からで、あれが出たとき、メディアはものすごく否定的だったんですよね。

──自分は実はリアルタイムではまったくちゃんと追いかけてはいなくて、なんとなく目の端っこでその動きを捉えていただけなんですけど、やっぱりヒップホップの"norm"って、どれだけ危ないストリートで育ってどれだけワルだったかっていう、アブない武勇伝合戦みたいなところってあるじゃないですか。育ちの悪さ自慢というか。で、聴いてるこちらとしては、要は中産階級の甘ちゃんですから、ブロンクスやコンプトンのストリートのリアルとか言われても、共感したい思いはあっても、ちょっと迂闊に「共感します!」とは言えないところもあるじゃないですか。そんななか、「大学」というモチーフをカニエがヒップホップのなかに持ち込んだのを見て、ちょっとホッとしたところもあるんです。それはちょうどエミネムが「育ちの悪いのは黒人だけじゃねえ」って感じで出てきたのと、ある意味好対照で、自分は両方とも熱心に聴きはしなかったんですけど、「なるほどヒップホップはこうやって拡張していくんだな」と思ったんです。

K カニエが偉かったのは、そこでひとつの拡張をもたらしたとしても、そこに安住しなかったことですよね。「808s & Heartbreak」では、お母さんの死は大きなモチーフになってますが、ヒップホップのコンテクストのなかに、ああいった内省的な自己語りを持ち込んだのは非常に大きな功績だったと思うんです。あの作品がなかったら、ドレイクも、ケンドリックも、フランク・オーシャンも、チャンス・ザ・ラッパーもいなかったと思うので。

──たしかに、ヒップホップはある時期から明確に「シンガーソングライター」っぽくなった感じがします。なんというか、フォークシンガーのようなナラティブを扱えるようになったというか。たしかケンドリック・ラマーがあるインタビューで、ヒップホップにはふたつの側面があって、それはコンタクトスポーツとしての一面と、ソングライティングという一面だ、と。

K 同時にカニエは、あの作品でサンプリングの比率をぐっと減らして、オーセンティックな意味での「トラックメーカー」から、より広い意味での「サウンドプロデューサー」になっていくわけですよね。と、同時に、母親の死というものを契機として壮大なライフストーリーというか、人生上の激しい浮き沈みがはじまることにもなります。

──「808s & Heartbreak」は、タイトルからもわかる通り、ローランドのTR-808というドラムマシンとオートチューンも大々的にフィーチャーしていて、いわゆる古典的なヒップホップの音づくりからかなり大胆に離脱していった作品ですよね。ここでも、やっぱりヒップホップの規範というものを打ち破っていこうという姿勢は一貫してますね。

K その後を見ても、ヒップホップをハイアートやハイファッションの世界と結びつけたり、ボン・イヴェールのようなインディロックのアーティストと結びつけたりと、いまでは当たり前になっているようなことは、振り返ってみるとカニエが仕掛けたものなんです。みんながカニエに注目する理由は実はそうしたところにもあるんだと思うんです。単に音楽的に注目してるというだけではなく、彼がさまざまなブレイクスルーを実践してきたその方法論みたいなものに興味があるからなんですよ。イノベーションに関する本なんて、本屋さんに行けばいくらでも売ってますけど、そこで語られているようなことをカニエはずっと実践してきているんです。だからこそ、ずっと飽きずにウォッチすることもできるわけです。彼のやっていることを見れば今がわかるし、その次に何が来るのかも見えてくるんです。

──具体的に言うと、どういうところが勉強になります?

K そうですね。たくさんあると言えばあるんですが、いま言ったようなジャンルのボーダーレス化みたいなこともあるんですが、やっぱり物事をちゃんと「現象化」しちゃうじゃないですか、カニエって。現象化してスタンダード化しちゃう。ファッションの世界ですら、カニエがつくったフォーマットが、結局いまやスタンダード化して、リアーナのブランドがLVMHから立ち上がるようなことが起きる。あるいは、いまの若い世代のラッパーのドラッグと音楽の関係なんかを見ていると、明らかにカニエの影響があるんですよね。

──それって、どの辺の話ですか?

K Lil Pumpや、こないだ亡くなったJuice Worldって、いわゆる抗うつ剤をやってるんですね。オピオイドとかザナックスとか。その辺はカニエもある時期常用していたもので、そこでのトリップ体験の音像をフォーマット化したのも、やっぱりカニエなんです。それでひとつのシーン出来ちゃっているといってもいいくらいなんですが、それもあくまでもカニエの多面性のほんの一部でしかないので、そうやって考えると、彼の影響下にいないアーティストを探すほうが難しいんじゃないですかね。

──やっぱり、そういうところではリスペクトはされてるんですよね。

K 人間としてどうかは微妙だとしても、音楽的にはやっぱり断然リスペクトされてると思います。Twitterなどを見ていると、カニエがアルバムを出したら、当たり前のようにみんなリツイートしますからね。そんなアーティスト他にいないですよ。

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ローマ法王の求められかた


──とはいえですよ、カイエさんが観たというヒューストンのライブを観ていて思ったんですけど、カニエって、基本的に歌下手くそじゃないですか。ラップもケンドリック・ラマーのような人と比べたら技術的にも相当劣ると思うんですよ。

K 間違いないです。

──ということはパフォーマーとしてはやっぱりマイケルやプリンスやビヨンセの足元にも及ばない存在で、むしろそういう古典的な「スター性」というものがないところでスターになったというのは、本当に特殊な気がします。本人は、むしろアメリカのアントレプレナーの系譜のなかに自分を置いていて、あるイベントで「エジソン、フォード、ディズニー、ジョブズ、そしてウェスト」だって、まあ自分で言うわけなんですけど、その自己認識は面白いですよね。というのも、これっていわば天才的かつ変態的なギークの系譜なわけじゃないですか。という意味で言うと、そもそものところで、黒人のスターの類型として新しかったんだなと改めて思うわけです。

K カニエがDef Jamからソロアーティストとしてデビューするときから、そこで揉めてたと言いますからね。本人は独立したラッパーとしてやりたいと言っても、なかなか受け入れられず、さまざまなレコード会社にプレゼンしに行ったらしいんですけど、なかなか契約が取れなかったと言われてます。そのときに、だいぶ苦労したらしいんですよね。

──カニエの《サンデーサービス》っていうものの比較として、もう一方にビヨンセの《Beychella》を置くと、そうしたカニエの特殊性は際立ちますよね。というのも、ビヨンセの《Beychella》は2回のライブ、トータルで正味4時間の本番のために、8カ月間トレーニングに明け暮れて1秒どころか0コンマ1秒のズレすら許されない軍隊的な規律のなかで達成されたもので、もうアメリカのショービズの頂点みたいなものじゃないですか。

K ハリウッドぽさというか、ラスベガスっぽさというか、そういう圧倒的な感じですよね。


──ですです。観客を圧倒し倒すという。一方で《サンデーサービス》は、そもそも誰が主体なのかもわからないし、ある意味こじんまりとしていて生々しいもので、ほんとに両極という感じなんですよね。

K そうなんです。で、問題は《サンデーサービス》をいざ体感してみると、やっぱり《Beychella》が古く見えちゃうというところなんです。あのときのBeychellaのインパクトはたしかにすごかったですし、自分も素直に感動したんですが、でもいま見てみると、すべてを完璧にコントロールして、完璧な何かをつくろうという、あの姿勢そのものが、時代の感覚に即していないんじゃないかっていう違和感もあるんですね。完全性ってもはや幻想でしかないじゃないですか。

──それはよくわかります。もちろんビヨンセのライブはすごいし最高なんですけど、あのスーパーハイクオリティはまずもって資本力が成せるわざだとも思うので、ビヨンセがやる分にはいいんですが、じゃあ他に誰があれをできるんだと言えば、まずいないですよね。

K つまり参考にならないんですよ。ある意味、ビヨンセの方が特異点で、当たり前の話ですがフォーマット化できないじゃないですか。

──そうなんですよね。カニエの才能というのは、フォーマットの発明みたいなところにあるのかもしれないですね。

《Beychella》から《サンデー・サービス》までの2年の間に世界が大きく変わったんだと思っているんですよ。つまり《Beychella》は決定的なひとつの音楽的事象として刻まれてますよね。世界の分断を象徴するひとつの祭典というか。その分断を可視化させて「さあ、みんな戦うのよ!」みたいな話だったわけですよね。でも、その後、そうした戦いに次第に疲れてきたり、飽きてきたというような感覚が出てきて、そろそろ誰か、それを調整する役割が必要になってきてるように見えるんです。そうしたなかで、例えばローマ法王のような存在がクローズアップされていて。日本でだって、いままでローマ法王が日本に来ても、これほどまでにニュースになることじゃなかった気がするんですよ。かつ、結構ポジティブに報道されてたように思いますし。


──そうでしたね。

K  これは別にキリスト教うんぬんだけの問題じゃなくて、もう国家元首が、分散した人々の意識や欲望を束ねられなくなっている表れなんじゃないかと思うんです。

──《Beychella》って基本的に、みんなに対して「あなたらしくていいのよ」というメッセージが中心にあったと思うんです。でも、それを突き詰めていくとどうしても人は孤独になる。でも宗教にはある意味「私は一個の固有の、世界に他とない私である」みたいな縛りの重さから解放してくれるようなところがあって、そこは結構重要なテーマな気がするんです。そこには、宗教にアイデンティティを委ねるというよりは、自分というものを真ん中に置いて考えるのやめましょうよ、みたいな気持ちが強く含まれているように思うんです。

K   みんなが自分を中心に考え始めていて、その個の集合としての社会と考えたると、いろんな欲望があちこちでぶつかりあって収拾がつかなくなっちゃうわけですよね。

──そうなったときに、音楽ってものはやっぱり有効なはずだという気がしなくもないんです。特にみんなで一緒に歌うとかそういう場所を、新しいやり方で再創出していくというか。《サンデーサービス》はそういう試みに見えなくもないんです。

K 《サンデーサービス》が面白かったのは、いま会場の問題で段々とステージ然としてきて、ステージと客席が明確に分かれていますけど、当初のアイデアは、演者と観客が同じ高さに立って、パフォーマーが円陣を組んで、お客さんがそれを取り囲むというものだったんです。つまり、演じる主体と聴く主体の区別がないというか、その分断を無効化する建て付けだったんです。で、そこで生み出される一体感っていうのは、ちょっとやっぱりすごいんですよ。それと比べると、完璧な演し物を用意して、みんなで「すげえ」って言って鑑賞するのって、いま、とても違和感があるんです。もやっとしちゃう。

──自分がコンサートっていうものが基本的にそんなに好きではないのは、それが非常に制度化された空間だからなんです。「あなたは演じる人」「私は聴く人」という線引きがあって、それが金銭的な対価をもってサービス化されているという感じが、なんだか白けちゃうんですよね。一回引っ込んでアンコールで2曲やって、というようなこともうんざりしちゃうんです。要はサービスなので、金払った分は返せみたいな話にどんどんなっていくわけじゃないですか。顧客満足度だけが重要な世界。

K そうですね。

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SNSドリブンな宗教改革


──クラブみたいな空間によって、そうした制度性を解体していくことが期待されたんだとは思いますけど、それが産業化されていくなかで、DJがどんどん神格化されていくのを見てると、結局そこに戻っちゃうのかという失望はあるんですよね。それはそれでもちろん楽しいのはわかるんですけど、もっと違うあり方はないのかなと。

K 《サンデーサービス》は、そういう意味でいうと「人を束ねる」ということを、これまでと違うやり方でやれないのかという問いから来ていると思っていて、それはコミュニティの新しいつくり方とか、経営の新しいやり方をめぐる実験のように見えるんです。もちろんそこでは宗教というかゴスペルのフォーマットが援用されているんですが、カニエがやりたいのは、宗教をやることではなくて、そのフォーマットを通して、音楽産業の“norm”を壊して、再構築することなんだと思うんです。

──なるほどなるほど。たとえば《Beychella》のような会社と、《サンデー・サービス》のような会社があったとしたら、どうなんだって考えるのはちょっと面白いです。

K 《Beychella》はどう考えてもアップルのような企業体じゃないですか。カリスマとしてのトップがいて、そこから巨大なピラミッドが構成されているという。一方で《サンデーサービス》は、大きなフレームはつくるけれど、その中では、それぞれが自由にやっていいよっていうかたちになっていて、統率をとる部分と、自発性に委ねるところのメリハリがすごく面白いんですよね。

──リーン組織とか、ティール組織とか、いまどき言われているような組織のあり方に近いんですかね。

K カニエが社長だとして、出てくるときは出てくるけど、基本8割くらいは、もうスタッフっていうか、社員が動いてるんですよそれぞれに。

──でも、お客さんは面食らいますよね。カニエを観に来たら、カニエがいつまで経っても出てこないわけですから。

K でもそれが趣旨なわけですから。

──個人的には、自分もカイエさんと同意見で、カニエが今の時代に合致した音楽のフォーマットとして《サンデーサービス》というものを提案してきたことの意義や価値は大きいと思うんですが、その一方で、やっぱり宗教っていうものの危うさはどうしても気にはなるんです。というのも、音楽家と宗教の関係って、結構危うい綱渡りだなと思うのは自分がプリンスのファンだったからなんですけど、『ブラックアルバム』と呼ばれる、非常に毒気の強い猥雑で際どいアルバムを、プリンスは、それがネガティブな感情からつくられたものだという理由からボツにして、逆にポジティブオーラに包まれたいささか宗教がかった『ラブセクシー』というアルバムを代わりにリリースするんですが、セクシーさという観点でいけば圧倒的に『ブラックアルバム』の方がセクシーだったわけで、それと較べると『ラブセクシー』はなんだかちょっと漂白されちゃった感じがある気がしたんです。

K わかります。

──カニエについても、これまでカニエが好きだったファンは、ある種の毒気というか心の闇をそのまま吐露してしまうところが好きだったはずなので、それを綺麗に清めてしまったカニエが、これまでと同じようにスリリングな存在であり得るのか、というのはとても気がかりなんです。その辺、どう見てます?

K カニエが実際のところどの程度、本当に信心しているのかは、正直測り難いなとは思ってます。すぐ気が変わっちゃう人だったりはするので。その一方で、カニエの場合、初期のアルバムから音楽としてのゴスペルはずっと底流としては流れていましたから、『Jesus is King』『Jesus is Born』とこれまでの作品との間に、そこまで大きな断絶があるとも思わないんです。ついこの間までは「おれがジーザスだ」と言っていたのが、『Jesus is King』で急にジーザスのしもべになったのも、たしかに急展開ではあるのですが、オブセッションとしての「ジーザス」の重みは変わってはいないのではないかと言う気がしなくもないんです。

──たしかに。過去作を遡って、ゴスペルっぽい作品を拾い出してみると、やっていることは実はあまり変わってないようにも聴こえます。

K そうなんです。むしろ、このカニエの動きを理解する上で大事なコンテクストは、アメリカのみならずヨーロッパでもメンタルヘルスというものが大きな社会課題、国家的な政策課題として持ち上がっているなか、心のケアというものをどこかが管轄し、どういうソリューションをもってその問題に立ち向かうのかというところにあるように思います。加えて、そこに宗教組織が関与していくことへの期待があるわけですし。

──なるほど。

K   カニエはプロテスタントなんですよね。アメリカって基本的に、プロテスタントのほうが力を持ってるんですよね。黒人教会もプロテスタント。そしてゴスペルもプロテスタントから出てきた音楽です。そう辿っていくと、今の宗教の動きとカニエの今の活動と、共振していると思います。

──分かるような気がします。カニエだけでなく、わかりやすいところで言えばチャンス・ザ・ラッパーなどもそうですし、ジャズの世界でもゴスペルの再評価というか前景化というのは結構目立ってきてるようにも思います。

K  音楽に限らず、一般的に見て、全世界的に宗教の見直しが行われていますよね。貧富の差の拡大やドラッグ蔓延など多くの問題がアメリカでもヨーロッパでもかなり深刻な問題になっていて、そんな中での宗教の価値とその現代的なあり方が問われていますよね。

──音楽や文化に関する議論は、少なからずメンタルヘルスの問題とセットで語られる印象があります。ヨーロッパでは「孤独」もテーマ化していますし。この状況のなかで、宗教というものが培ってきたフレーム、教義の部分ではなく「毎週日曜日にはとりあえずみんな集まって歌う」みたいな慣習というか、そういうものの価値が重視されてきているのではないかという気がします。

K   ルターの宗教改革ではグーテンベルクの活版印刷技術の発明がその後押しをしたわけですが、ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんけど、活版印刷とルターの関係が、インターネットとカニエに置き換わるのかもしれないと、冗談でなく思ったりするんです。

──でかいすね。

K   カトリックとプロテスタントを一緒くたにはできませんけど、少なくともいまのキリスト教の在り方や、宗教というもののを見直す姿勢を広めるためのメディアとして、カニエの活動は見られているところもあって、実際アメリカのメディアもそういう視点で見てるんです。「われわれは布教活動のための、ものすごく強力なメディアを手に入れたかもしれない」みたいな勢いでいってるんですよ。

──ほんとに?

K   グラミーはどうなるかわからないですけど(編集註:残念ながら逃しました)、少なくとも『Jesus Is King』『Jesus Is Born』のセールスはそれなりにいくはずなので。さっき話に出たこれまで考えられてきた「スター」としていまひとつと思える点も、彼は違うところでカバーできちゃっているんだと思うんです。それはインターネットやSNSなくしてはできなかったことで。SNS時代に、それを最もうまく活用して成功しているアーティストはカニエだというのは、これはもうずっとメディアで言われていますし。

──そうなんですね。

K   あと、彼の功績をさらに言うと、やっぱり映像なんです。ショートフィルムというか、映像と音楽を組み合わせて全く違う物に見せる。「Jesus Walks」なんかもこれまでのヒップホップとは全く次元の違う映像の作り方しています。アルバムを作る前に、30分くらいある長尺のムービーを作って流すんですが、いわゆるヒップホップの「ギャングスターが車乗って金と女の話する」みたいな常套句を一切排除した、詩的でアーティスティックなビデオをリリースして意思みたいなものを明確に伝えていくんですね。SNSなくして、これは実現されなかったな、という感じがします。

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テイラー事件のあとさき


──なるほど。今回、このインタビューに備えてカニエを知るために昔のアルバムも含めたカニエのプレイリストを作ったんですよ。そうしたら「Jesus Walks」みたいなゴスペルっぽい曲って最初からどの作品にも最低1曲ぐらいは入ってるんですよね。ずっとあったんだなと。そう考えると、今回のカニエのゴスペルへの回帰みたいなことは、年来のファンからすると「まあ、そうだよね」という感じなんでしょうか?


K
   最初から、明らかにディープなキリスト教の内容だなとか、必ずその手の曲があるなとか、それはみんな認識してたと思います。でも「Jesus Is King」以降、「Yeezus」あたりから「自分イコール神」になっちゃったんですよね。「The Life of Pablo」なんかは、ゴスペルアルバムなんだけど、結構ひどい内容で「俺は神だからさっさとクロワッサン持ってこい」みたいな歌詞で(笑)。でもそれは完全に双極性障害の影響が本当に大きくて。僕の見立てでは、音楽批評家が評価している「808s & Heartbreak」以降、精神的にまともな状態は一回もないと思いますね。「My Beautiful Dark Twisted Fantasy」という名作ができたのも、テイラー・スウィフトとの事件の反動でしかなくて。

──あ、そうなんですか。あの事件はカニエにとっても同じくらい大きかったんですね。テイラーにとって相当なトラウマになっているのは、Netflixのドキュメンタリーでも明かされてましたけど。


K    はい、最近のインタビューでも「僕はいろんなことから教わった」って言ってますね。「ヘネシーからも教わった」と…テイラーとの事件のときは、ヘネシーを飲んでかなりの酩酊状態だったらしいですね。それで結局、事件によっていままで築き上げてきたものが全部崩れちゃったと。

──自分のせいじゃないですか(笑)。でも、あれが転機になって、アイデンティティー・クライシスに陥ったんですね。

K    完全にそうですね。

──そこから、精神分析的にいっても大変な状態になったわけですよね。やっぱり、カニエってアイデンティティーのよりどころが難しいアーティストだろうなという気はするんです。例えばプリンスであれば、楽器もとんでもなくうまいし、「天才だ」って自分も周りも分かる。それがいいかどうかは別として。でもカニエってある意味、何もできないといえば、何もできない(笑)。

K    楽器も鍵盤弾いてるのしか見たことありませんね。

──カニエって、才能が目に見える形で表出しないんですよね。音源としては出てくるんだけれど。分かりやすい評価がされづらいというか。

K    何かひとつは特化してできるものがあってこそ、というこれまでの音楽業界の評価軸に当てはまらないんですね。

──そうなんですよ。プロフェッションがどこにあるのか全く分からないような気がしますよね。でも、彼はすごくよく音楽を知っていて、コンテクストを読むのもすごくうまい。ある音が鳴ったときにそれが持つコンテクストや、それを書き換える方法を熟知しているという感じがするんです。でもそれって人に説明するのは難しくて、分かる人は分かるけど、分からない人は分からない。多分カニエ自身は、自分はすごいと思ってる。でもなかなか伝わらない。そういう状況で、「自分はすごい」という意識が肥大していったんだけれど、それが「やっぱり違うんだ」と思って、ある種の反省に行きついた…と解釈できるんですが、ずっとリアルタイムで聴いているカイエさんからすると、どうなんでしょうか。むしろ、狂ってたカニエがすごいみたいな見方というのもあるはずで。正気に返ったら、音楽的にどうなるんだろうっていう心配はあるんですか?。

K   もちろんありますよね。過去のアーティストを見ても、やっぱり宗教に傾倒していくと大体面白くなくなっていきますし。でも、僕はどちらかというと、カニエの音楽を聴いているというよりは、カニエの趣向に興味があるんですよ。

──なるほど。

K    要は、カニエにいま起こってることって、誰にでも起こり得るという前提がある。彼はSNSを利用して自分の活動を広げてきたけれど、一方でSNSによって傷つきもしたわけです。プリンスの話で言うと、周りに自分の才能を称賛してくれてかしづいてくれるブレーンだけいれば、一部の雑誌を除けば、嫌な話は全部シャットアウトできた。

──でも、カニエはオーディエンスとダイレクトにつながる方法を自分で選択したから、嫌なこともいっぱい入ってきちゃう。それで双極性障害などの精神的なアップダウンを繰り返した後に、啓蒙によってより多くの人たちを救えるんじゃないか、自分もみんなも一緒だよとなっていったというのが、今の状態なんですかね。ところで、話をもう一度《サンデーサービス》に戻すと、教会のお客さんも結構来てるんですか。

K    どうですかね。テキサスだとWASPのほうが全然多いイメージなんですが、黒人のお客さんが多かったですね。

──そうなんですね。さっき、最初は割と客席の反応が薄かったって言ってましたけど、その後は、どうでした?

K   コンサートの始まりの頃は、やっぱり「この人どこまで本当に信心してるんだろう」って懐疑的な見方があったと思います。でも、3〜4曲目くらいからガラッと変わりましたね。ただ、過去のカニエのツアーの経験からすると、ファンが求めている内容がまったく違うんだなとは感じましたね。

──というと?

K   これまで観た経験だと、カニエのライブは「The Life of Pablo」のときが一番尖っていて。高いところにステージを作って、そこから地上に1回も下りず、ずっと上から1人で叫び続けるライブで。分かりやすく「神と下々の者」という構図をミニマムな演出で作ってたわけです。

──なるほど。

K   あれはあれですごく分かりやすいし、コンテンポラリー・アートっぽさもあって良かったんです。とにかく場をかき乱すし、やってることはめちゃくちゃなんですけど、すごかったですよ。トラヴィス・スコットもあれを見てるので、その影響はライブの演出にも出てますよね。

──トラヴィスも高いところに行きますね(笑)。

K    そう(笑)。あれはアクセル・ローズとかマリリン・マンソンが作ってきたような狂信的な世界観みたいなもので、ヒップホップでそれをやった初めてのアーティストがカニエなんだと思います。ああいう空間はヒップホップでは誰にも作れなかったから。むちゃくちゃでしたけど、やっぱりキッズたちは熱狂してましたから。

──《サンデーサービス》には、そういうキッズは来てました?

K    キッズもいましたよ。拍子抜け感も若干見えましたけど。サンプリングのネタがSWVとかSoul II Soulとかスティービー・ワンダーみたいな昔からラジオで流れているような曲だったりもしたので、なんだそれ感は若干あったと思います。

──ヒューストンでデスチャの「Say My Name」の替え歌やってましたよね。あれはかなり微妙だなと思いましたけど(笑)。

K   「あれ、ここでそれやるんだ…」とは思いましたけどね(笑)。ただ、ショーケースとしての完成度が明らかに普通じゃないので、最後は会場全体が本当に盛り上がってましたよ。四つ打ちのダンストラック使い始めたときには、そこまで行くんだってびっくりしましたし。

──ちょっと前にロサンゼルスでやった時は、もう少しストイックな演奏でしたよね。オルガンとパーカッションとシンプルなリズム隊だったのが、ヒューストンではシンセなどの電子楽器が増えていって…....「ゴスペル軸のダンスフロア」みたいなものにアイデアが拡張してる感じはしました。

K   そうですね。LAで花に囲まれてやっていたのは《サンデーサービス》の前半のひとつの完成形だと思うし、あれはあれで素晴らしいんですけど。このヒューストンでのライブは、本格的に布教活動にまわるための地方ツアー用のショーケースって感じですよね。

上:LAのThe Forumで開催された、2019年11月3日の《サンデーサービス》下:ハワード大学での公演。2019年10月12日


──カニエの《サンデーサービス》の考え方は、ゴールが見えないところで新しい状況に対応してくことで、最適化されるという現代的な組織のイメージですよね。そもそも完成形のイメージがないし、常に可変可能というモデル。実はヒップホップには本来的にそういうところがあるのかもしれないですね。

K   そもそもあり合わせのもので作るものですしね。

──ケンドリック・ラマーが「DAMN.」を出したときに、まず「俺は曲順を逆にして聴いてる」ってツイートしてから、一年の最後に逆並びバージョンを出したのを面白いなと思ったんです。つまり完成形に見えるものは単なるテンポラリーなある段階にすぎないという意思表明のような気がして。インターネットの性質からすると、ウェブサイトは「完成しないもの」ですよね。カニエは「完成品」というアイデア自体がなくなっていく状況の中で、もう一度アルバムみたいな完成形という考え方を定義し直そうとしてるんだと感じられます。

K   それって例えばテスラのビジネスの考え方なんかともとつながりますよね。つまり、ハードウェアは問題ではなくて、OSやアプリを入れ替えていけば、どんどんアップデートしていけるという考え方じゃないですか。カニエは、そうした考えをコミュニティに導入しようとしているように思うんです。ある集団をどう動機付けして、どういうソフトをインストールするか。それだけでコミュニティが変わるかもしれないという、そういう可能性に挑戦してるんだと思うんです。

──なるほど。ちなみに《サンデーサービス》に参加している歌手や演奏者たちってのはどういう人たちなんですかね。

K   音楽監督のジェイソン・ホワイトが集めた人たちらしいですね。昼間は普通に学校の先生やってたりするようなセミプロの人たちもいるそうですが、基本100人くらいいて、それも場所に合わせて増えるらしいです。この出演者たちはみんなやっぱり本当に信者なんだな、と垣間見えたのが、ライブが終わった後に、それぞれステージで立ち尽くして、5分くらいずっとお祈りしてたり、座ってお祈りしてたりするんですよね。

──ゴスペルシンガーって、基本的に信者なんですよね。そりゃそうですよね。

K   かなり敬虔な信者ですよ。

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キム・アルメニア・南京


──カニエの宗教観という点で言うと、自分的にはキム・カーダシアンの出自に興味あるんですよね。って、彼女、アルメニアの血を引いてるんですよね。それで、カニエも、娘のノースちゃんを連れてアルメニアの教会を訪ねたりしてるんです。キムは学校はカトリックなんですが、ご両親がアルメニア出身で、アルメニアにはアルメニア正教会というキリスト教の非常に古い宗派が残っていて、その影響下にあるはずなんです。カニエはキムと一緒に、エルサレムを訪ねたりもしてるんですが、エルサレムの旧市街って4つの街区に分かれているんですが、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ともうひとつがアルメニア人の街区なんですよね。カニエの宗教性にとっては、キムがいわゆる王道的なアメリカのキリスト教徒じゃないようなところは、案外重要なんじゃないかなという気がするんです。要は、カニエはアメリカという空間を常に外から見ている人だという感じがすごくするんです。カニエだけはブラックカルチャーも外から眺めることができたんだという感じがあって。だから、「キリスト教」と言っても、カニエはメタな視点からそのフォーマットを見られるというか。音楽に関しても、カニエって俯瞰的な視点からフォーマットを見られるじゃないですか。宗教だと、キムがマジョリティーの宗教ではない出自を持っているのも、なんらかの影響がある気はして。

K    それ、カニエの中国時代の話にもつながりそうですよね。小学校のときに南京にいて、ライブもひとりで観ていたという。そういう経験なくしては、こうなってないだろうなという想像はつきますよね。

──そうなんですよ。「黒人は400年間、自ら奴隷だったんだ」というような歌詞を歌った「New Slaves」という曲があるじゃないですか。もちろんそんな考え方にはあらゆるメディアが猛反発してるし、その反発はもちろん正しいとは思うんですけど、一方で、アメリカでは黒人社会における女性差別やLGBTQに対する差別は今なお問題視されていますしといったことを考えると、結局のところ、差別/被差別の構造を自分たち自身も再生産していて、だからこそ差別の構造から自由になれないのだというのは、ありうる批判だとも思うんですね。カニエは、そこまでことばを尽くして、「黒人が自ら奴隷なのだ」と言ったわけではないとは思うんですけど、カニエが、ブラックカルチャーにおけるゲイ差別のひどさを涙目で糾弾している動画があるんですが、それを見てると、やっぱりカニエはブラックカルチャーにおいてはアウトサイダーなんだな、という感じは強くします。

K    特に同性愛をめぐる話では、カニエのポジションは独特ですよね。カニエは、ファッション業界にいったときに、ファッション業界にゲイの人が多い状況にヨーロッパで接した影響もあって、アメリカに帰ってきたときに同性愛者に対する差別がひどすぎるって話をしてるんですよね。とはいえ、それ以前の最初の3枚のアルバムでは、典型的なヒップホップのアーティスト的な、同性愛否定みたいな発言もあるんです。その頃というのは、パフォーマーとして、分かりやすく様式に則ってやってたんだと思うんです。でも、「808s & Heartbreak」以降、本来の自分が言いたいことを言うようになって行きますね。自分はポリティカル・コレクトネスみたいなものを気にしない、そういう調整された何も言えない社会のほうが問題だ、と彼は明言してるわけです。

2005年のインテビューでヒップホップ界におけるホモフォビアについて涙ながらに語るカニエ


──面白いですよね。カニエの一種の回心って、実はそれ自体がとても重要だという気はあまりしなくて、来年になって突然キリスト教なんてクソだとか言い出して宗旨替えしたとしても、そんなには驚かないと思うんです。むしろカニエは、宗教的な教えそのものより、そのフォーマットにこそ強く興味があるんだろうという感じがするんですよね。そうしたフォーマットを外部から査定できるのは、すごく特殊な才能なんじゃないかと思うんです。彼がジョブスをはじめ、いわゆるアントレプレーナーに強く憧れをもっているのは人の行動を規定しているフレームとかアーキテクチャーとかフォーマットに、より強い興味を持ってるからなんじゃないかと思うんですよね。

K   そうですね。ぼくもカニエの視点は、そこにこそあると思います。彼はアートとプラットフォームとの融合をやりたいんだと思うんです。ビジネス的な建て付けと、自分が信じているものの融合のなかから、ジョブスがつくりだしたような新しい世界、新しいフォーマットを作りたいんだと思うんです。

──ワイオミングにYEEZYキャンパスみたいなものを作るアイデアとかも、カニエなりに一種の自己循環型のエコシステムみたいなものを考えようとしてるんだと思うんです。で、その発想自体は、全然ずれてないじゃないですか。

K    そういう意味で、カニエに注目している人っていろんなジャンルにいるんですよ。そのなかでも、ビジネスマンとしての彼の価値をちゃんと評価するという視点は、特に日本では欠如してるような気はして、それはちょっと残念というか、もったいない。

──Jay-Zとかもそうだと思うんですけど、彼らをちゃんとビジネスマンとして評価するフレームが日本にないのは、ちょっと物足りないですよね。

ワイオミングの"YEEZYキャンパス”でZane Loweを迎えて行なった長尺インタビュー。「Jesus is King」リリースと同時に公開された


受難曲としてのカニエ史


──ところで最後に、オペラのこともとても気になっているのですが(笑)、あれはどう見たらいいんですかね?

K   僕はLAとマイアミでやった『ネブカドネザル』はちゃんと見られてないんですけど『Mary』は、とりあえずYouTubeで見て。Twitterとかも見てみたんですが、すごく評価が高いんですよね。特にニューヨークのリンカーンセンターでやったものは、相当評価が高いです。ちょっと、本当かな、どうなんだろうって思いますけど。

リンカーンセンターで上演されたオペラ「Mary」。2019年12月22日


──プレイリストを作るために、ゴスペルっぽいものやそれに近い話を拾っていくと、高みへの憧れと下衆な俺、みたいなことを、行ったり来たりしてるのが見えるんですが、曲を並べていくともうそれ自体がすでにオペラじゃないかという感じはするんですよ。つまり、一種の受難曲なわけです。カニエの。

K   なるほど、確かに(笑)。それ面白いですね。「Yeezus」で自分が神になっちゃって、その後パブロという使徒の1人としてジーザスの下に自分を置いて、その後に、『Ye』ってアルバムを作る。Yeってカニエのあだ名で、つまり自分に戻って、という(笑)。・

──それ自体が受難の物語といえばそんな感じがするんですよね。それでいまは、こちら側の、平場に戻ってきて(笑)、みんなと一緒にワイオミングで外に出ちゃったり。《サンデーサービス》は日本には、来ないんでしょうかね。どこか日本の教会が呼んだりしてくれないのかしら。

K   どうでしょうね。日本って確か人口に占めるキリスト教徒の割合が0.4%とかですよね。アジアだったらクリスチャンが多いのは韓国やフィリピンでしょうしね。あと、単純に日本でのヒップホップのマーケットサイズだと、あまりやる意味がないかもしれないですよね。

──ちぇ、残念。

K   ですね。

2020年4月16日にUS版「GQ」に掲載・公開されたカニエの最新インタビュー。ワイオミング、ロサンゼルス、バハ・カリフォルニア、そしてパリの4カ所で行われた4本のインタビューを一気に掲載した超ロング記事。建築、サスティナビリティ、コミュニティデザインに対する目下の興味が明かされる。ワイオミングに設計中のドーム型の家のレンダリング画像は必見。

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