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新しい近世と 「デジタル分散主義」 【池田純一】

アメリカのテックシンカーダグラス・ラシュコフが、これからはじまるインターネットの第2フェーズを定義すべく用いたのは「分散主義=Distributism」の語だった。インターネットを特徴づける「自律分散」の概念からとられているかと思いきや、その語は100年ほど前に、カトリックの総本山バチカンから発せられたものだった。

資本主義のカウンターであると同時に、共産主義のカウンターとなる概念として提示され、その後、長い間忘れられていた「第三の道」。いまそれは、どんな価値を語りかけているのだろうか。ユーロ、インターネット、スマートフォン、GPS、キャッシュレス。一見バラバラに見える現象は、資本主義とも社会主義とも異なる新しい「イズム」に向けて、発動しはじめている。

EUの動きから見えてくる未来は「近世」を思わせる。国家の存在が後退し、「貨幣」の概念も大きく揺らぐなか、新しいガバナンスの原理としての「分散主義」の可能性を、デザインシンカー池田純一が読み解く。

TEXT BY JUNICHI IKEDA
Photo by Giorgio Trovato & Dan Visan on Unsplash
『NEXT GENERATION BANK』(黒鳥社刊)より転載

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Photo by Dan Visan on Unsplash


貨幣はアプリとなり、人は国家から解放される

マネーが社会経済の血液である以上、その未来を展望するうえで社会の動勢や時代感覚の理解は欠かせない。その意味でいま、留意すべきは、インターネットが第2フェーズに入ったことだ。アメリカ発の新世代ネットワークインフラとしてただひたすら世界中に増殖していく段階を終えて、エリアや都市、あるいは文化圏ごとに、自らの姿を適応させ進化する段階。自分の周囲の環境を認識することで、その環境とのインタラクションを通じて自分自身を変貌させていくフェーズである。現実世界の軋轢に直面しながらも、その要請に応えつつ自己のあり方を変えていく点で、青春に続く「朱夏」の時代といってよい。

きっかけは2016年。「America First」を唱えるドナルド・トランプが大統領に選出され、アメリカはグローバリゼーションの推進役であることをやめ、同時にそれまでのインターネットの盟主の地位を自ら放棄した。その傍らで、EUや中国がインターネットの未来に影響を与えはじめている。諸国がインターネットのスタンダードセッターとして乱立する段階だ。標準=普遍ルールを競い合うという点では、清やロシア、オスマン・トルコなどの帝国群がユーラシア大陸の覇を競い合っていた近代以前の時代、すなわち「近世」を彷彿とさせる。インターネットを舞台にした「新しい近世」がはじまっている。

そんな時代潮流のさなかアメリカでは、いわゆるビッグ4(Google、Apple、Facebook、Amazon)によるインターネットの事実上の寡占に対する反動が続いている。端的に「デジタルを皆の手に取り戻せ」という運動であり、コーポラティズムやコーオペラティヴィズムというスローガンを掲げながら、初期のインターネットで語られた「協働」や「自律分散」という夢の実現を志している。

そのひとつが、本誌冒頭でも紹介されたダグラス・ラシュコフの「デジタル分散主義」(Digital Distributism)だ。ポイントは「成長ではなく繁栄を」という主張にある。つまり、企業の巨大化という意味での「成長」(growth)ではなく、企業を取り巻くさまざまな存在まで含めた「繁栄」(prosperity)を目標にすべきというものだ。「シェアホルダーではなくステイクホルダーを重視した経営」とほぼ同義であり、その意味で「持続可能な経済」のデジタル版と理解することもできる。

ラシュコフからすれば、インターネットが道を踏み外した原因は、時価総額としての成長を極端に優先する金融資本主義にインターネットが呑み込まれてしまったことにある。銀行でいえば、投資銀行ではなく、せいぜいが商業銀行に、かつてのような地域経済や実体経済とともにある銀行に戻れ、という主張である。

1891年の分散主義

ところで分散主義とは、てっきり「自律分散」からとった言葉だとばかり思っていたのだが、「ディストリビューティズム」という言葉ならびに考え方の由来は、意外なことにローマ・カトリック教会にあった。産業革命が進展するさなかの1891年、ローマ法王レオ13世が信徒に向けた回勅「レールム・ノヴァールム」(新しきもの)で示したもので、副題に「資本と労働の権利と義務」とあるように労働者の権利を謳ったものだった。産業革命による社会の急速な変容のなかで貧困にあえぐ人びとを憂えたものであり、ディストリビューティズムの考え方はその後、欧州におけるキリスト教民主主義の源流のひとつとなった。2015年には、フランシスコ法王が「テクノロジーが人間性を規定する」現下の技術支配パラダイムを批判する際にも使われている。

要するに、ディストリビューティズムとは、産業資本主義が台頭する20世紀初頭に、反資本主義の思想として登場したものであり、同時に労働者救済へのアピールという点で、無神論の共産主義への対抗から提案されたものだった。つまり、資本主義でもなく共産主義でもなく第三の道を提案するものだった。

その位置づけはいまでも変わらず、ソ連の崩壊によって共産主義への信頼がガタ落ちしたところで、反資本主義の思想の現代における雛形として扱われている。レオ13世の回勅でも、(共産主義とは違って)私的財産の所有は認めるものの、しかしその所有は人びとの間に広く行き渡るのが望ましく、したがって(資本主義とは異なり)資産の独占状態は好ましくないという考えが示されていた。結果的に、個々人の自立を保障し協働を可能とするような体制がその目標とされた。まさにラシュコフらの考え方と同調している。

こう見てくるとディストリビューティズムの中核は、昔「分配」、今「分散」である。1世紀前の産業資本主義時代は、機械技術の「規模の経済」の合理性から資産の巨大化や集中化が求められたが、独占を許さないとなると「共有」という話になり、そこで例えば会社という資産を共有するために取締役会に労働者代表を組み込むというかたちがとられたり、会社の利益を政府が税を通じて再分配するというかたちがとられた。

一方、現代の情報資本主義の場合は、情報技術の「範囲の経済」の合理性から資産そのものを集中させる必要はそれほどなく、はじめから資産の分散が選択できる。コンピューター技術や技能を広く人びとに分散させることが目指され、各人が自発的に情報経済のエコシステムに参加することが促される。

だがそれにしても、そのシステムに参加できるよう技術や技能を予め得たとして、それで何をするのか。つまりラシュコフらのいう「繁栄」とは具体的に何を指しているのか、という疑問が生じる。その具体的内実がなければ、ディストリビューティズムと謳ったところで、ただの現状への不満の吐露、すなわちルサンチマンで終わってしまう。となると、ルサンチマンから解放されるためには、これからの「繁栄」の要として、何か新たな目標ないしは理想を掲げることが望ましい。では、現代において目指されるべき繁栄、すなわち幸福とは何なのか。

目指すのは「移動の自由」

カトリック神学にも多大な影響を与えたアリストテレスは、「エウダイモニア」という言葉で「善き生」を説いた。それはもちろん、欲しいものを購入したら得られる「効用」のような短期的なものではなく、人生の長きにわたって感得できるような生涯の「幸せ」のことだ。その幸福を誰もが得られることをひとまず「繁栄」と呼んでもよいだろう。

では現代において潜在的に人びとが求める理想とは何か? 例えばそれは、誰もが「移動の自由」を享受できる世界であるとはいえないか。誰に束縛されるわけでもなく自分のいるべき場所を決定できる自由。それは、とりわけ近代に入って国民国家体制が世界中で敷かれ、国境が定められ、その越境にはパスポートの携帯が必要になった時代からの離脱であり、ある意味で国民国家以前の時代に戻ることでもある(ここでも「新しい近世」である)。

いうまでもなく、その「移動の自由」はEUですでに試みられている。ディストリビューティズムの由来も欧州にあったが、他でもないEU自体、人びとの自律的な人格の自発的な開花に期待するカトリック的な考え方―人格主義と呼ばれる―から大きな影響を受けていた。

EUには「補完性の原理」(Principle of Subsidiarity)と呼ばれる統治の階層化の原理があり、この下では、小さな自治体の政府で自己決定できる/すべきことには、国あるいはEUといったより上位の統治機関は基本的に介入しないことが求められる。その一方で小さな政府での自己決定では対処しかねること、また自治そのものを損ねるような事態を放置しないことがより上位の統治機関には求められる。つまりは、小さきものの自立を損ねるような事態の到来を看過しないということであり、これはそのまま、人びとの自立とそのための社会制度の整備に努めるべきであるとするディストリビューティズムと重なる考え方である。

その意味では、「移動の自由」そのものも、こうしたEUの人格主義的発想に適うものである。しかも現在は好都合なことに、移動を支えるテクノロジーもスマートフォンを筆頭に続々と登場している。その結果、人びとの「移動の自由」を支援するサービスとして、EUではアプリオンリーの銀行まで登場した。そのようなアプリでは、ある国民がEU域内の他国に移動し、そこで生活する際のストレスの軽減を目指すことで利便性の向上に努めている。むしろ、EU、ユーロ、インターネット、スマートフォン、GPS、キャッシュレスといった動きが、バラバラだがしかし互いに関連しながら進行しつつあるなか、これらの同時代現象を繋ぐ鍵となっているのが「移動の自由」というEUが導入した理想であると解釈したほうがわかりやすい。もちろん、当座はEU「域内」に限定された「移動の自由」が中心であるが、それでも、かつてあった国境に制約された自由とは異なる類いの自由がそこには賭けられている。

そうした「移動の自由」という理想の追求、すなわち誰もが認める長期にわたるゴールが設定された上で、マネー関連の動きにおいてEUが興味深いのは、ユーロの導入、すなわち自国通貨の放棄と、キャッシュレスの動き、すなわち物理的な貨幣の放棄が同時に生じているところだ。そのうえで、スマートフォンを手にした人びとが域内を自由に移動する。

アプリこそ未来の貨幣

そして、そのスマートフォンを通じて利用されるマネー/バンクサービスのアプリは、アプリそのものの使いやすさや、そのアプリ開発者の信用度、あるいはその会社が提供する(ハッキング等に対する)安全性などに基づき選択されていく。いわば人びとの求めにきちんと応じることができたものが生き残るわけだが、その様子も、中世において欧州各地で発行された金貨や銀貨のなかから、貨幣そのものの質や発行主体の長期にわたる安定性を鑑みて、広域で利用される決済貨幣が淘汰されていった過程に近い。当時は行商人が行っていた良質のマネーの選別だが、現代においてその役を担うのは、一人ひとりのスマートフォンをもったEU域内の住人なのである。

おかしな話に聞こえるかもしれないが、マネー/バンクアプリこそが、現代の貨幣なのである。欧州のことでいまひとつピンとこない人には、たとえば中国のAlipayを思い浮かべてほしい。中国から大量に送り出される観光客たちが、訪問先の街での買い物を効率よく、かつストレスなく進めるには、訪れた先の観光地でもたとえばAlipayを使って金銭のやり取りが互いに(電子的に)記帳されればよい。具体的な物理的貨幣の両替を介さないキャッシュレスの世界では、お金のやり取りとは互いの口座(=お金の保有量が記録されているデータベース)の同時書き換えが本質であるからだ。そうすると訪問先の人びとが利用してくれてさえいれば、あるアプリ(ここではAlipay)が標準的な決済手段として、つまりは以前の決済貨幣として定着していくことになる。

国家と切り離されたマネー

いまの話はキャッシュレスだけであって、たとえば日本への中国人観光客であれば、元と円の為替相場が介在することになり、口座の段階で銀行が分かれるのだが、そのような処置を広域にわたって必要としないのが現在の欧州だ。

その欧州で興味深いのは、ユーロの導入によって自国発行の貨幣が消失し、その代わりにユーロという物理的貨幣が導入されたわけなのだが、その普及の過程で日に日にキャッシュレスの動きが加速していることだ。

これが何を意味するかといえば、マネーが、ナショナル・アイデンティティを醸成するツールの役割からほぼ解放されてしまったことである。つまり、まずは自国貨幣の消失から、紙幣や硬貨に記された「国の偉人」の肖像から解放され、代わりに「EUの偉人」の肖像がEUアイデンティティの糧にされるかと思いきや、キャッシュレスへの急速な移行によって「肖像画」そのものが抹消され、その限りで政府によるアイデンティティの刷り込みからも解放されてしまった。だから精神的にもEUという超政治体にふさわしい「自由の人」となったわけだ。マネーから近代的なナショナリティが消去された。

つまり期せずして、共通通貨ユーロのキャッシュレス化によって、EUは「移動の自由」を前提にした、個々人のアイデンティティの帰属先も転移可能な統治空間に転じている。それはマネーのあり方が生み出した一つの新しい世界である。その移動の世界に即したサービスの提供が、いま、EUでは起こりはじめていると捉えるべきなのだ。銀行からすれば、自国通貨の放棄は同時に中央銀行を通じた国家的統制からの解放を意味しており、その分、移動の自由の時代に適した発想が求められる。

「定動」する独立自営職人

ところで、ここでいう移動とは、単なる物見遊山の観光的一時滞在ではなく、もう少し長期にわたり腰を据えて生活拠点を変えていくことを意味している。いわば「定住生活」ならぬ「定動生活」。広域を移動する人たちが前提の世界だ。そのような移動する人びとの生活を支えるためのサービスが新たな開発対象となる。

もちろん、人口や領土という点であればアメリカがすでに先行事例としてあるではないかという指摘もありえるが、彼らはすでに長らく(かつての黒人奴隷を除いて)最初から連邦の全土で移動可能であることを前提に生活をはじめている。その意味では、多くは「移動できるがここに留まる」ことを選択した人や会社が定着した社会だ。移動そのものに〈越境〉という新体験は伴わない。

けれどもEUの場合は、いままさに越境によって言語や文化の壁を越え、「新たな」広域さに直面する人びとが多数存在する。彼らが行う移動は、いにしえの「ひとつの欧州」を再確認する歴史的移動でもある。いわばそれぞれの人びとの心のうちで「移動という漠たる夢」を刺激しながらの移動の実践なのである。それは一種の理想として機能することができる(同時にその反動として「離れない」ことを積極的に選択する「下からのナショナリズムの希求」が生じることも理解できる)。

そこでの新たなビジネスチャンスは、そのような「定動生活」を支援するような広域にわたるニッチの発見にある。明らかにそのひとつがマネーアプリだ。ディストリビューティズムが掲げる誰もが自立できる資源を持ち合わせた社会を思い返せば、そのような移動人たちの先駆者たちはおそらく──農地に留まることで自活する「独立自営農民」という言葉にならえば──手に職をもつことで自活する「独立自営職人」とでも呼ばれるべき人びとだろう。

現代的なイメージとしては、プログラマーや料理人、会計士といったあたりが思い浮かぶところだが、そのような人たちが移動を前提に生計を立てられるネットワーク上の組織や団体、ならびにそうした組織/団体を支援するサービスがまずは求められる。加えて、独立自営職人には「自衛」も大事であることを忘れてはいけない。大企業の勤め人と異なり自らの手で自らを守る必要に迫られることは多い。その支援も「移動の自由」の実現にあたっては重要である。

カウンタープログラムとしての分散主義

実はこうしたサービス開発の一端は、コワーキングスペースの提供事業などですでに見られる。都市の空きスペースを中心に、所属の異なる複数の人びとが入れ代わり立ち代わり利用できるワーキングスペース。そうしたニッチを支援するサービス群。

もちろん、こうしたサービスのなかには新たなネットワーク独占を得る企業も出てくることだろう。しかもそれは、スペースの時間的切り売りという点で不動産事業と関わるものである。その意味では、次なるITは、ラシュコフが断罪した「金融資本主義」に毒されたITに準じれば、「不動産資本主義」に侵食されたITになるのかもしれない。けれども、それらの存在によって自律分散的な生活が少しずつ支援されることもまた確かなことだ。

新たな成功は新たな独占を生む。となるとその未来においてもまた、新たなディストリビューティズムの提唱が起こるのだろうか。分配、分散、の次は、どのような目標になるのだろうか。

そう考えるとディストリビューティズムとは、資本主義が行き過ぎたときに生じるカウンター言説として、資本主義の成功の背後に必ずついてまわる影のような存在といえそうだ。そしてその背後には、カトリックに端を発する神の下での自由と平等という概念がある。そのようなカウンタープログラムが、欧州では20世紀の後半を通じてEUに結集したのに対して、プロテスタントが建国したアメリカではいままさに発動しようとしている。その事実はなかなかに示唆的ではないだろうか。

JUNICHI IKEDA|池田純一
コンサルタント、Design Thinker。コロンビア大学大学院公共政策・経営学修了(MPA)。早稲田大学大学院理工学研究科修了(情報数理工学)。電通総研、電通を経て、メディア・コミュニケーション分野を専門とするFERMATを設立。著書に『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』、『デザインするテクノロジー』、『ウェブ文明論』、『〈未来〉のつくり方』『〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生: ウェブにハックされた大統領選』などがある。

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