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重いもの


夫は、41歳の時「やりたい事を今やらせてくれ!」とサラリーマンを辞め飲食業を始めた。

そこから我が家の家計は火の車と化していく。

当時、私達には小学生の子どもが2人いた。この子達だけは守らねば!私と夫の共倒れだけは避けたい。

「私は私だけでも子どもを育てる経済力をつけよう。どうせやるなら私がやってみたい仕事をする!」と決めた。

39歳で大学の通信教育を始め、41歳で小学校教員免許を取得、講師として働き始めた。

子ども達は、必死にあがく親の姿を見ていたと思う。

夫も私もそれぞれの道を、前だけを見て走り続ける日々だった。

夫は飲食業、私は講師として4年が経ち、火の車から下火になり落ち着いた。しかしそんな我が家に転機が訪れる。

私の親友の病。
親友の命の期限を知らされた時、余りの短さに言葉を失った。

私は尋ねた。「人生で他にやりたかった事ある?」

親友は答えた。「カフェをやりたかったなあ」

「やりたい事を今やらせて」
今度は私の番だった。

私は定年退職後、やれたらいいなあと思っていた喫茶店を今、開く事にした。

親友の夢と私の夢を一緒に叶えようと思った。夢を叶える過程を一緒に味わいたいと思った。その思いに寄り添い、励まし、応援してくれる友人達が集まった。

夢は美しい。

しかし、我が家の家計は再び火の車となった。


一年半かけて、海辺の小さな漁村に小さな喫茶店を開いたのは、親友の命の火が消えた一月後だった。

あれから4年。
相変わらず夫と私は同じ飲食業ではあるが、それぞれの道を必死に走り続けている。

夢は美しい。

しかし、1人では夢を見続ける事は出来なかった。

沢山の友人に支えられ
人の優しさに涙して
人の温かさに救われた


当時、小学生の子ども達は2人とも大学生となった。

彼等は、それぞれの夢を持って進むべき道を探すだろう。

大学4年の娘は、バイトを2つ掛け持つ。今春大学生になった息子は、仕送りを減らしてと言う。
なんで?と聞くと

「お母さんのお金は重いんよ」

お金が重いか....

親としては苦笑いであり
心配かけてごめんねであり

生きる糧となる子ども達の思いである

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