読書の秋にこんなお金の本はいかが

 だいぶ日が落ちるのが早くなったような気がします。そろそろ灯火親しむ候。読書の秋にオススメのお金の本をご紹介しましょう。

 お金の本というと経済小説か、教科書的な知識を学ぶための本、あるいは「簡単に1億円儲かる!」なんていうノウハウ本が頭に浮かびますが、今回ご紹介するのはそういう本とはちょっと違います。
それは江戸時代中期の国学者であり作家、上田秋成の書いた怪異小説集
『雨月物語』です。怪談好きの方なら心踊るような(?)品格のある短編集なのですが、その中で他の作品と趣を異にするのが、お金に関係する一編である『貧富論(ひんぷくろん)』です。

■ 枕もとに現れたお金の精
 陸奥の国に勇名とどろく岡佐内という武士がいました。この人、お金を貯めることに非常に熱心で、変わり者として通っていました。しかし、単にけちであるわけではなく、下男が金貨一枚を大切に持っているということを聞き、「どんな名刀でも千人の敵にはかなわないが、金の力は、天下の人をもなびき従わせるものだ。武士たるもの、これを粗末に扱ってはならない。」とほめて、褒美を与え、武士にとりたててやったりしていました。その夜、左内が枕元に気配を感じて目を覚ますと、そこには小さな老人がにこにこ笑いながら座っていました。老人は「自分はいつも、あなたが大切にしているお金の精」と名乗り、自らが考える(つまりお金自身が考える)お金というものの本質を語り始めるのです。

■ お金自身が語る「お金の本質」とは?
 このお金の精がまず語るのが「お金を軽視しないでほしい」=お金の持つ徳を軽視して、蓄財というものが偉大な事業であるということを知らないことは大きな過ちである、ということ。
いわく、世の中の人は、金持ちはみな心がねじ曲がっているとか、愚かであるなどといったりする。しかし、富み栄えた人というのは、天の摂理に従い、周りの人や環境などとの調和を充分に考え、その結果として富を築いたわけである。清貧を自称する晴耕雨読の世捨て人を賢人とよんだりするが、そういった行為自体は別に立派とはいえない。それぞれの人が自分の職業に励み、家を豊かにして祖先をまつり、子孫の繁栄をはからずして何が人間の仕事だというのか、と。

 そこまで聞いた左内は老人に、それでは貪欲で薄情な連中が金持ちになり、立派な人が報いられず貧しい暮らしに甘んじているのはどうしてなのか?とたずねます。
その答えは「私は神でもなければ仏でもなく、魂はあるけれど人間のような情はない、ただのお金の精」。つまり、善行をほめたり、悪を罰したりするものは、あくまでも天や神や仏の役割であり、お金には人間の善悪を裁いたり、その道理に従ったりする義務はない。ただ、お金というものの価値を認め、大切に扱ってくれる人のところに集まるものだということ。従って自然の法則にかなった事業で裕福になった人もいれば、けちや貪欲を一心に通して裕福になった人間もいるということなのです。

 さらに、お金の精はこんなことも言っています。蓄財は一つの技術であって、上手なものはよくこれを集めることができるが、下手なものは、いくら持っていても、まるで瓦でも壊すように、簡単にこれを失ってしまう。お金の精がつきまとうのは、人間の事業であり、決して一定の主人を持っているわけではない。集まったかと思えば、その持ち主のやり方ひとつで、水が低いところへ流れるように、あっという間に別の人のところに行ってしまうこともあるのだ、と。

■ 現代にも通じる教訓
 この『貧富論』を含む『雨月物語』は明和5年(1768年)に刊行されました。名作は時代を超えるといいますが、今から約250年前に出されたこの作品にも、読む人によってそれぞれに感じるであろう教訓や示唆が多く含まれています。短いお話ですし、現代語訳もいろいろ出ていますので、ぜひ一度読んでみてくださいね。

幸せを呼び込むポイント
・江戸中期の『雨月物語』の中にお金を扱った短編がある。
・言わんとすることは「お金というものを軽視しないこと」「お金は善でも悪でもないただの存在」「お金はその価値を認め、大切にする人のもとに集まる」


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