見出し画像

『Sunny』が呼び覚ました土に生えている草だった頃の僕と僕たちのいたところ

急に親に会えなくなることほど悲しいことはない。
幼稚園くらいにそう思った。もしかするともっと低年齢の頃にだったかもしれない。
いつからか母が入退院をくりかえしており身近にいてくれなくなった。いたりいなかったりのシマウマ模様記憶。
小学校の入学式に来てくれるのかどうかが人生初期最大の祈りごとで、来てくれてクライマックスを迎えたあとまもなく母は病院へ戻っていった。

小学中学年まで俺はグレていたような気がする。グレていたというよりクロく剛くありたくあり、真っシロに記憶が飛んでいたりもした。
本気で思うことは母にいてほしいということだった。父ともいっしょに笑って過ごしたいということだった。祖父母の領域に預けられて家の前の学校へ行く時間が修羅場だった(学校は楽しかったが)。学校もその目の前の自宅も、(自宅は会社だったから)その周辺の空き地も境界はないも同然で(うちの領地だと思い込んで)果てしなく駆け抜けつづけ誰かに怒鳴られ何かを忘れようとしていた。
不在のあることを。さまざまに欠けているピースについて思うことを。

『Sunny』を手にして読んだときから真っシロだった部分から幼年期が浮上し、シマウマだった記憶のムラがイメージとして均され始めた。
『Sunny』はすごいコミックだ。何度泣いてしまっただろう。たぶん一生言語化しないはずだった箇所を大洋さんの絵と余白(のセンス)が埋めてくれるからだ。
不在を抱えて野性に逃げていた傷だらけの幼少期の経験がこんなふうに報われるとは。

松本大洋さんに初めて会ったのは1988年の秋だったと思う。
担当していた読み記事のビジュアルとして、当時『コミックモーニング』に『STRAIGHT』を初連載で描いていた大洋さんにイラストの依頼をした時。わざわざ出てきてもらってお茶だったかランチだったかともにした。「絵を描くのが好きなのでは?」と尋ねた。漫画以上に、と。「そうです。だからイラストの仕事が来たのはうれしい、初めてです」とおっしゃった。あとは野球の話や日常の話をダラダラした。

まもなく大洋さんは手が届かないほど遠くまで往く人となった。1995年に私の処女小説『ノックする人びと』が河出書房新社から上梓されることが内定し、表紙の話になって、担当編集者だった吉田久恭さんに、松本大洋さんのイラストにしてほしいとお願いした。いろいろあって最後には『鉄コン筋クリート』のクロにしてほしいと指定までした。何より大洋さんが読んでくれること、その絵が表紙になることがうれしかった。

親元で暮らせない子たちの児童養護施設「星の子学園」を舞台にした『Sunny』にでてくる子のひとりが言う「空ははんぶんが昼ではんぶんが夜になってる…」は、『鉄コン筋クリート』シロの、「死んじゃうこと考えちゃう時間だね」というセリフと同じだと思った。「あの年で、生きることに絶望しとる」と”じっちゃ”に解説されるクロと、シロの、彼らのルーツが星の子たちなのだろうか。

大洋さんの持っているのであろう少年期の記憶のなかに自分がいるような気がした。
そこでは大洋さんと私と多くの子どもたちが同じ土に生えている植物のように微かなことに感化され痛みを感じ取っている。
星の子学園のなかに自分もまざっているような気がして読んだ。そこに生えた子どもたちは、言葉には絶対にしない。子どもたちは同じ土に並んで生えてる草と草だからゆるい風が吹いてもわかる、同じように揺れるから。微かな揺れ、それで子ども世界は十分なのだ。十分敏感なんだから、いつも、百分の一でいいのだ。0.01のズレでもしっかり傷つくから。隣の草がともに揺れたり枯れかけたりすることだけでドラマ足りている。もうぜんぶわかっているのだ。あとはどうか引き抜かれませんように……。

薄墨を使って描かれているほんのりした曖昧さを画面に呼び入れて、大洋さんがつくりだす「余白」は、感じることを一度天に帰して空を見上げ、雪や柳絮(りゅうじょ)のようにひらひら降りてくるものとしてのみ現実を受けとめる、そんな工夫。そう感じさせる。意図というより気配とか総体とか、「あわい」のようなもの。

なんで人間不信にならないんだ。なんで親に会えないんだ。目の表情や景色のうつろい。なんでそれでも人間不信にならないんだ。母と会いたくて会えなくて、黙っている子どもたちの内面が、これほど精妙に表現された漫画世界。

あだっさぁん たぁろぉおお せいくーん!!

----
帰省すればいつでも会えてた母は、大洋さんに初対面した数ヶ月後、私の20代最後の年の初めに倒れ、灯が消えるようにふっと世を去った。小学校の入学式以降は特別な猶予期間が続いてるように感じていたから、すごく長い延長戦を生きて、居てくれたのだと、感謝しかなかった。

『Sunny』(松本大洋/全6巻/小学館)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?