「障害」は社会が生み出す物だとするなら、コミュ障はいかに
どうも、ハシロウです。
今日の記事はまずこちらのつぶやきから。
一読して
「これはコミュ力強者の発言だな」
と思いました。
小学校低学年の時に
「新年度のたびにみんなあいさつみたいに『友達になろう』って言うけど、初めて会った人間に『友達になろう』って言ったところで友達になんかなれるのか」
と疑問を抱いてから、友達みたいなものとは縁の薄い人生を過ごしているハシロウ@コミュ障にはなかなかシビれるお言葉です。
セッティングされた場所に出向いて、決められたテーマで会話の取っかかりでもつかまなきゃ、異世代どころか同世代の交流だって夢のような話なんだな。
大人でコミュ障で無職(または在宅ワーカー)だと、学生の時みたいに「強制的に人と会う」ようなイベントはまず発生しません。
誰かと会うには自分でどこかに出向かなくてはいけないんだけど、その時点でなんかもうすげえくそだりぃ。
とりあえず、その「くそだりぃ」をどうにか超えて、とある場所に赴いたとしましょう。
話さなきゃ気が合うか合わないか分からないの、そりゃそうなんけど、その第一段階である「初対面の人に話しかける」っていうこと自体もうむちゃくちゃハードルが高いんだよな。
「これじゃいけない」
と思って10年くらい前からすげえ頑張っていろんなイベントに出向いたりサークルに参加したりしたけど、
「楽しい」と「疲れた」の割合は素敵なイベントでも半々、ダメなときは「疲れた」圧勝。
疫病でその手のイベントが軒並み中止になってどこにも行けない日々を送っていたら、どこにも出向かなくていい日々がもう本当に快適すぎて、最近やっといろんな物が解禁されたのに10年前以上に腰が重くて、なんならもうこの手のカフェに行くのだってすごく面倒くさいよ。
「面倒くさい」という言葉は嫌いだ、やる気がどんどんそがれていく、だけど面倒くさいものは面倒くさい!(4回も言ったな)
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