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過食嘔吐の日々〜大学生活編〜①

上京して一人暮らし
高校2年に始まった過食嘔吐。

壮絶な過食嘔吐と大変な大学受験を乗り越え、無事に東京の大学に進学した。

そして、慣れない東京での一人暮らしが始まった。

その時の私はこう信じていた。

過食嘔吐なのは、親と一緒に住んでいるのが原因だ。

私の食べるものをいつもこっそり監視してくるお母さんと離れられたし、

好きなものを好きに食べれる生活になれば、きっと私は良くなる。大丈夫。

そう思っていた。

そして、現実は私のそんな生温い期待など完膚無きまでにぶっ壊してくれた。

過食症は、そんな甘いものではなかったのだ。

大学でも過食嘔吐


毎日、過食嘔吐が止まらなくなった。

高校の時よりも、ずっと食べ物のことが頭から離れなくなった。

自由な時間が多ければ多いほど、過食症には厳しい環境となるのだと私は悟った。

完全に食欲をコントロールすることができなくなっていった。

授業中に、お菓子を食べ続けたこともある。

そして、授業中に吐いたこともある。

みんなに見られたくないから、大学のトイレで誰もいないことを確認して、

コンビニで買ってきたお菓子を食べ続けて、そのまま吐いたこともある。

ついでに、そんな状態だし、友達もだんだん減っていったので、

お昼は一人で見られるのが恥ずかしくて、ひとりランチをトイレで食べたこともある。

とにかく「人の目」が怖かった。

どう見られるか、いつも考えていた。

怖くて怖くて仕方なかった。そして、その恐怖から逃れるために、食べて、食べて、吐いた。

過食嘔吐でお金がない


親から仕送りをしてもらっていたし、奨学金ももらっていた。

それでも、毎日過食していると全く足りないのだ。

安く済ませても、だいたい1回あたり1,000円はいくし、それを何回もしてしまえば簡単に資金などショートしてしまう。

そして、過食嘔吐が激しいので、アルバイトをなかなか続けられないという状態が続いていた。

恥ずかしいけれど、私はアルバイトをばっくれたり、遅刻したこともある。

そして、そんな自分の性格を毎日責めて、責めて、責めていた。

気持ちだけはすごい真面目なんだけど、身体と心がついていかなかった。

私にとって、「自分」という存在は異物だった。「自分の身体」はいうことを聞かない入れ物だった。

今思えば、本当にモノか何かのような扱いをしていたと思う。

夜の仕事を始める


そんなこんなでお金に困っていた私は、夜の仕事を始めたのだった。

キャバクラである。

当時の私は、本当に世間知らずだった。

キャバクラとは、肌を露出したドレスを着て、お客さんのつまらない話を聞いて、「すごーい!」っていうところだと思っていました。

(ちゃんと誇りをもって働いている人もたくさんいます。

今思えば申し訳ない考え方をしていたと思います。)

もうそれが嫌で嫌で。

面白くないものを面白いということが苦痛だった。

私はそれも気づかず、ただモヤモヤを胸の内に抱えて、そして、結局帰って吐く。

という悪循環にハマっていた。

ただ、日々を生きていくことに必死だった。

もはや、生きることは、

食べて、食べて、吐くこと。

そういうことにすり替わっていた。

そんな人生に私は何の光も見出せなくなっていった。

そんな大学1年生の春だった。

とうとう発狂する


そんな生活が数か月続いた。

きちんと食事を摂ることもなく、食べては吐いていたので、人生初の栄養不足状態だったのかもしれない。

人生で初めて、立ち眩みで倒れた。

そして、脳にも必要な栄養素がいかなかったからか、

私は極度のパニックを起こしてしまった。

それも、真昼間に。

自分が自分である感覚が全く消失してしまって、

今、ここにいるのが誰なのか、自分とは何なのか、まったく理解できなくなって、

部屋の中で一人でのたうち回って叫び続けていた。

逆説的な言い方だけれど、叫んでいないと自分が自分として認識できなくなってしまうような恐怖があった。

あの恐怖感は説明ができないほどに恐ろしく、経験がある人にしかわからないなにかなんだと思う。

それが落ち着いた後、電話を無視し続けていた母の電話に折り返し電話をした。

「わたし、もうダメだ」

ただただ泣きじゃくる私に驚いた母は、東京まで何日もしないうちに駆けつけてくれた。

母には今でも感謝しきれない。

つづく

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