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1603年~1663年の日本とイギリス

「本当は怖い風の時代」の続きがどうしても長くなってしまうため、補足のため関連記事を書いています。前回は、17世紀の異常気象と宗教戦争について書きました。1万字を越えてしまいましたが良かったらご覧ください。

占星術的に見ると、17世紀は主に「火の時代」でした。
ここで言う「火の時代」は、約20年毎に起きる木星と土星の会合であるグレートコンジャンクションが、火のエレメントの星座(牡羊座、獅子座、射手座)で起き、それが約200年続いている状態を指します。

もうひとつ「〇〇座の時代」というのがあります。
「本当は怖い風の時代①」の終わりのほうにも書きましたが、これは地球の歳差運動に関係しており、約2160年毎に起きます。

2160年間の「〇〇座の時代」は、地球の歳差運動で25,920年かけて一周することから単純に割り出し、1つの星座には2160年滞在するとしています。(約25,920÷12星座=2160年)
実際には星座の幅はマチマチなので、正確な年数ではありません。


火の時代(1663年~1842年)

下の表を見ると、1603年から「火」が始まっていて、途中1643年に「水」が飛び入りしているように見えると思いますが、正確には「水の時代」の終わりに「火の時代」がプレビューしている状態です。

正式な「火の時代」の開始は、1663年に火星座の射手座で、木星と土星の会合から始まっています。

このように「〇の時代」の終わる前に、次のエレメントがプレビューしてきます。いきなり次の時代にはならないんですね。
エレメントは火→土→風→水の順です。

火の時代プレビュー(1603年~1643年)

1603年は、ちょうど江戸幕府の始まりと重なります。

1601年にペルーのワイナプティナ火山の噴火がありました。
噴火で大量の粒子状物質が大気中に放出され、とくに二酸化硫黄が硫酸を形成し、火山の冬が作り出され、地表に到達する太陽​​光の量が減少したため、世界中で厳寒となり、大規模な飢餓の一因になったと考えられています。

この頃、ロシアで飢餓(1601~1603年)が記録されています。
1603年の天気は良好でしたが、前年までの不作により畑に蒔くのに十分な種がなく、飢餓が激化したそうです。
国民の約30%に当たる200万人が死亡したといわれていますが、多数の死者が社会混乱(大動乱)の一因となり、ポーランドの侵略(ロシア・ポーランド戦争1605年から1618年)を引き寄せることになりました。

日本もワイナプティナ火山の噴火の影響があったはずと思います。

ジェームズ1世と日本

1603年、イングランド女王エリザベス1世死去によりテューダー朝が断絶し、スコットランド王ジェームズ6世(1566年6月19日 - 1625年3月27日)がイングランド王ジェームズ1世として即位しました。

ジェームズ1世

スコットランド王としてはジェームズ6世(在位:1567年7月24日 - 1625年3月27日)であり、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ1世(在位:1603年3月24日 - 1625年3月27日)である。非公式にはグレートブリテン王の称号も用いた。
スコットランド女王メアリーと2番目の夫であるダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの一人息子である。

イングランドとスコットランドの王位を初めて一身に兼ねた君主であり、各国との協調政策に尽力し「平和王」とも言われている。
この後ヨーロッパで広がる「王権神授説」の基礎を作ったが、国王と王妃の出費から財政的には逼迫させ、議会と最終的には対立してしまう。

ユニオン・フラッグは、1606年にジェームズ1世が制定しました。

ユニオン・フラッグ(1606年版)

ユニオンフラッグは、イングランドのセント・ジョージ・クロスとスコットランドのセント・アンドリュー・クロスを重ね合せています。

現在のユニオンフラッグ

ジェームズ1世は、1611年にイングランド国教会の典礼で用いるための欽定訳聖書(別名ジェームズ王の聖書)の翻訳を命令したことでも知られています。

ジェームズ1世は、私的にはなかなか興味深い人物ですが、長くなるのでここでは詳細は避けます。

三浦按針とイギリス商館

1613年、長崎県平戸にイギリス商館が開かれました。

当時、徳川家康に外交顧問として仕えていた三浦按針(ウィリアム・アダムス)の手紙を受け、イギリス東インド会社のジョン・セーリスがジェームズ1世の国書を持って日本に向かい、徳川家康・秀忠親子と交渉して、平戸にイギリス商館を築いたと言われています。

三浦按針については、日本史で習った記憶がある気がします。三浦按針ことイギリス人のウィリアム・アダムスは、1600年、九州豊後国(現:大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号の乗組員でした。

関ヶ原の戦いの約半年前のことで、五大老首座についていた徳川家康が、リーフデ号の生き残った乗組員と引見することになりました。
当初、イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康でしたが、彼らからリーフデ号の航海の目的、オランダやイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争のことを聞き、彼らの臆さない態度を見て誤解を解いたそうです。

乗組員の帰国が叶ったのは5年後。日本に留まることにした者は住居を与えられ、日本人女性と結婚し定住しました。
アダムスは、家康の信頼を得て旗本に取り立てられ、三浦按針の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きることになったのです。

1611年、イギリス東インド会社はアダムスがイギリス本国に送った書簡によって事情を知り、国王ジェームズ1世の許可を得て日本との通商関係を結ぶ計画を立て、ジョン・セーリスを日本に派遣しました。

ジェームズ1世から徳川家康への手紙(1613年)

このとき、秀忠からジェームズ1世に贈られた鎧などは、現在もロンドン塔に保管されています。ジェームズ1世は、これをきっかけに日本に大変興味を持っていたそうです。

しかし家康の死後(1616年以降)、キリシタン禁制に関連して鎖国体制が始まり、イギリスも1623年のアンボイナ事件以後、オランダとの関係悪化で東南アジアから退き、インド貿易にシフトしていったため、日本のイギリス商館も廃止されました。

アンボイナ事件は、1623年にオランダ領東インド(現インドネシア)アンボイナ島にあるイギリス東インド会社商館をオランダが襲い、イギリス商館員を全員殺害した事件である。
アンボン事件、アンボイナの虐殺とも称される。

アンボイナ事件は、イギリス商人が日本人傭兵らを利用してオランダ商館を襲撃しようとしているという容疑で、島内のイギリス人、日本人、ポルトガル人が捕らえられ、オランダ当局によって火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問が加えられました。イギリス人9名、日本人10名、ポルトガル人1名を斬首されたと言われています。

なぜ日本人が含まれていたかというと、当時は戦国時代が終り、大名改易(大名や旗本の所領、家禄、屋敷の没収および士分の剥奪)により大量の浪人が発生していました。
生活に困窮した浪人の中には、欧州や東南アジアの傭兵として渡航する者も多く、東インド会社にも傭兵として雇われていたのです。

このアンボイナ事件が、30年後、イギリスが「航海法」を発令するきっかけになりました。それはまた別の記事で。

「火の時代」の日本は鎖国

一般的には1639年のポルトガル船入港禁止から、1854年の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」 と呼ぶそうですが、現在の学校教育では、鎖国という表現は使用せず、「鎖国などの幕府の対外政策」と教えているそうです。

1549年のフランシスコ・ザビエルの来日以来、西日本にキリスト教が広がり、ポルトガルとの南蛮貿易の利益もあって、特に西日本にキリシタン大名が出現していました。
豊臣秀吉は、長崎がキリスト教布教の拠点となると同時に、西国大名が貿易の利益を独占するのではないかという危機を持ったため、1587年に長崎を直轄領にするとともに、バテレン追放令を出して宣教師を国外追放しました。
しかし、秀吉は貿易についてはその利益を独占するために、朱印船貿易を始め、宗教統制と経済とを分離する政策を採っていました。

徳川家康は、豊臣秀吉の政策を受けつぎ、朱印船貿易を盛んに行っていました。日本人の貿易商は東南アジア各地で活躍し、多くの日本町が各地に生まれました。山田長政という有名な人物がいましたね。

平戸(長崎県)にはポルトガル人、スペイン人が商館を設け、16世紀からはオランダとイギリスも進出してきていました。

キリスト教禁制は、江戸初期には緩かったのですが、しだいに幕府はキリスト教信仰が体制否定に繋がると強く思うようになり、段階的に禁教令が出されました。
背景には、プロテスタント国のオランダとイギリスが、「(カトリック国の)ポルトガル・スペインが日本を植民地化しようとしている」と言ったことも関係していると言われています。

1616年、家康が死去すると、幕府はキリスト教禁制と貿易統制の強化を結びつけた鎖国政策を急速に進め、貿易港を平戸と長崎に限定しました。
さらに1624年にはスペイン船の来航を禁止。ポルトガル船は、1639年に禁止されました。
イギリスは、上述のアンボイナ事件で日本からも撤退し、インド貿易にシフトしていきました。

鎖国完成までの流れ(一部)
・1636年、貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放し、残りのポルトガル人を出島に移す。
・1637年〜1638年、島原•天草の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助。
・1639年、ポルトガル船の入港を禁止。
・1640年、通商再開依頼のためポルトガル船が来航するが、幕府は使者61名を処刑。
・1643年、ブレスケンス号事件。オランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される。
・1647年、ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。
・1673年、リターン号事件。イギリスとの交易の再開を拒否。
以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。

このようにして、日本はオランダとのみ貿易を100年間行うことになったわけですが、鎖国の開始は「水の時代」の最後の20年と重なります。

鎖国の間、幕府はオランダによる「オランダ風説書」を通じて、海外の情報を受信していたそうです。
またオランダは、1840年のアヘン戦争発生をきっかけにイギリス系新聞を基にした別段風説書も送るようになっていたとか。

「鎖国」に対するオランダの認識
英国船リターン号が1673年に貿易再開を求めて来航した際に、オランダ風説書にて英国王チャールズ2世がポルトガル王女キャサリンと結婚したことを事前に幕府に対し報告することによって、オランダはその貿易再開を間接的に妨害している。
18世紀の中頃になると、オランダは「日本人はオランダ人が言う海外情勢は何でも信じる」との認識をもつに至った。既にこの頃になると「鎖国」は安定し確固たるものとオランダは考え、オランダ人の貿易独占権は容易には崩れないとも考えていた。

私的には鎖国は、「徳川幕府がカトリックとプロテスタントの争いに巻き込まれて、オランダ(プロテスタント)に引き込まれた」と見えます。
三十年戦争(1618年–1648年)の日本戦場みたいにも思えます。

アンボイナ事件にしても、現在ではオランダ東インド会社の陰謀だったと言われています。オランダは、東南アジア貿易を独占したかったのでしょう。17世紀始めのイギリスとオランダは、カトリック国のスペイン・ポルトガル勢力(つまりハプスブルク家)に対抗するため、軍事同盟を結んでいました。八十年戦争(1568年-1648年)では、イギリスは資金や軍を送ってオランダ(北部ネーデルラント)を支援していました。

そもそも三十年戦争の始まりは、神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)領域内のカトリックとプロテスタントのいざこざ(プラハ窓外放出事件)から端を発しました。
そこにヨーロッパの各国が介入し、その上カトリックの国であるはずのフランスがプロテスタント側についたので、ややこしくなっていったのです。

三十年戦争の終結は、参加国のほとんどが破産したためとも言われています。そんな戦争に何の意味があったかと言えば、「目障りなハプスブルク家をやっつける」ということでしょうかね。

1547年時点でのハプスブルク家の領土(緑部分)

始めのうちはカトリックのハプスブルク家が優勢だったので、ハプスブルク家がさらに勢力を拡大すれば、自分の国まで奪われてしまうと諸国は考えたのでしょう。同じカトリックだったはずのフランスが、プロテスタント側に回ったのがそれを証明しているように思います。

1648年に三十年戦争が終結し、いよいよ本格的な「火の時代」(1663年~1842年)に入って行きますが、その間も日本の鎖国は続いていました。

三十年戦争におけるイギリスの立場

ヴェストファーレン条約により、フランスはアルザス地方を獲得しヨーロッパ最強国となりました。一方で三十年戦争の戦費は莫大になっており、重税が課された民衆の不満は高まっていました。フロンドの乱(1648年)

三十年戦争の後半、ルイ14世(1638年9月5日 - 1715年9月1日)の親政が始まりました。太陽王と呼ばれたルイ14世は「火の時代」を代表する人物のひとりだったかもしれません。
ベルサイユ宮殿は、ルイ14世の頃に建てられました。1661年から建設を始め、最初の完成は1682年でした。この時期がルイ14世の絶頂期と言われています。
(フランスとその後のフランス革命については、以前にかなり調べたので別の機会に書きたいです!)

イギリスのジェームズ1世は、三十年戦争が始まる前の1613年に、娘エリザベスをファルツ選帝侯フリードリヒ5世と政略結婚させていました。
この結婚は、イングランドとオランダ共和国・プファルツを結ぶプロテスタントの連携を目指したもので、「テムズ川とライン川の合流」と言われました。

フリードリヒ5世は、1618年のプラハ窓外投擲事件に始まる三十年戦争では、ボヘミアの等族議員によってボヘミア王に選ばれたが、1620年にハプスブルク家が勝利を収めると王位を失い、そのことから冬王と呼ばれる。
1622年には本国プファルツもハプスブルク軍の侵攻を受け、オランダ共和国へ亡命し、1632年に亡くなった。

しかし、イギリスは財政難で、議会の同意が簡単に得られないため戦費を調達し辛い状況であったため、三十年戦争の当初はドイツに軍を派遣したり、フランスと同盟を結んだりはしていましたが、積極的な参加はしていませんでした。
ジェームズ1世は、亡命した娘夫婦を援助する取り組みを行いましたが、議会の強い反対によって実現しなかったそうです。

1625年、息子チャールズ1世(1600年11月19日 - 1649年1月30日)の時代に、フランスとの協調外交でオランダと同盟を結び、反ハプスブルクとプファルツ救援を掲げてスペインと戦いましたが、この攻撃は失敗に終わりました。
さらに深刻な政治的、財政的危機を引き起こしたため、1630年にスペインと和睦してイギリスは三十年戦争から手を引きました。

三十年戦争では、1624年にフランスの呼びかけに応じてデンマーク=ノルウェーを対ハプスブルク同盟へ引き込む為に資金を提供した結果、イギリス王室は財政難に苦しむことになった。

チャールズ1世

以後、チャールズ1世は財政再建を進めようと専制政治を行いましたが、それが元で議会と激しく衝突することとなり、1642年に清教徒革命(イングランド内戦)が起こりました。

「水の時代」の終わりとチャールズ1世の処刑

イングランド内戦は、1641年のアイルランドのカトリックが蜂起してアイルランド・カトリック同盟政権を樹立したアイルランド反乱(アイルランド同盟戦争の発端)から始まりました。
翌1642年に王と議会の対立から第一次イングランド内戦(1642年 - 1646年)が始まり、スコットランドでも二次にわたる主教戦争を経て1644年、国民盟約(盟約派)と国王派の間でスコットランド内戦が始まりました。

特にイングランドではピューリタニズムの影響を受けて民衆運動となり、次第に過激化・大規模化していきました。
王党派(騎士党)と議会派(円頂党)の内戦は、議会派が勝利しましたが、議会派内で内部対立がおこって第二次イングランド内戦(1648年 - 1649年)が起こり、1649年にチャールズ1世は処刑されました。

チャールズ1世の処刑後、王政は廃止されイングランド共和国が誕生しました。しかし、1660年に王政復古が起き、1661年に息子チャールズ2世がウェストミンスター寺院で戴冠。
チャールズ1世の処刑に賛同した者たちは、「王殺し」として処刑されたり、重い罰を受けました。

イングランド内戦とチャールズ1世の処刑は、「水の時代」の終わりの20年間(1643~1663年)の出来事です。

日本は、第3代将軍家光の時代でした。
江戸の四大飢饉のひとつ、寛永の大飢饉(1642年)が発生し、1644年には農民統制として田畑永代売買禁止令を発布されました。

また、1633年に長崎でキリスト教徒弾圧が起こり、安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧少年使節の副使だった中浦ジュリアンが殉教しています。
このときの刑は穴吊るしと呼ばれるもので、逆さづりにされ全身の血が頭にたまり、こめかみから数滴ずつ垂れていくため、すぐに死ねずにもがき苦しむという惨刑だったそうです。
中浦ジュリアンは、穴吊るしにされて4日目に亡くなりました。最期の言葉は「この大きな苦しみは神の愛のため」だったと言われています。

1637年には島原の乱( - 1638年)が起きました。

島原藩主の松倉勝家が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民、改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から発生した、江戸時代の大規模な反乱・内戦である。

島原は、キリシタン大名の有馬晴信の所領だった頃にキリスト教信仰が盛んになっていました。ところが、1614年(慶長19年)に有馬氏に代わって松倉氏の所領となっていました。
松倉重政は、領民から年貢を過重に取り立てたほか、厳しいキリシタン弾圧を開始し、拷問や処刑を行ったことが記録に残っています。息子の松倉勝家も重政の政治姿勢を継承し、過酷な取り立てを行いました。

有馬晴信といえば、1610年のノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号焼き討ち沈没事件ですが、これもなんかポルトガルを封じるための陰謀くさいと思ってしまう私です。
ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ事件は、家康とその後継者たちがポルトガル人から離れ、オランダ人を支持するようになった多くの事件のうちの1つでした。

この一件は、その後の岡本大八事件につながり、1612年に汚職が発覚して晴信は流罪となり、翌年処刑されました。

1663年から本格的な火の時代

1663年から本格的な火の時代になっていきますが、長くなりましたので今回はこのへんで終わります。
続きは、17世紀後半(1650年頃~1700年)と18世紀前半のイギリスとオランダの関係と、その頃の気候について書く予定です。
最後までお読みくださりありがとうございました。

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