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芋づる式読書『ぼんやりの時間』から


辰濃和男著
『ぼんやりの時間』を読んでいる。

面白い。
私は好き。

たくさん書き留めておきたい言葉がある。

この本の中で、『ぼんやり』について考察する著者が紹介する様々な人の言葉もなかなか面白い。

それぞれの章の終わりに、出典があって、芋づる式に読んでいきたくなる。

池波正太郎みたいに読んだことがあるものもあれば、知らない作家、名前は知っている詩人などなど。

面白い。

感じ方はそれぞれだから、私にとって面白い読みものでも他人にとってそうかは分からない。

比較したら申し訳ないと承知で書くと、『西洋菓子店プティ・フール』は、あまり面白いと思えなかった。

特に主人公の性格(思考?)が読み取りづらく「面白かった」という感想にはやや至らなかった.他の作品も気になる.

とある感想より

これが近しい。
主人公の性格が読み取りづらいし、可愛くない(人として)気がして、読みにくかったのだ。

甘い香りとお菓子の優しさで包み込まれた一冊。でも主人公の女の子だけが最後までどうしても苦手で、美味しいタルトの上に乗っている美味しいはずの大きいイチゴが口に合わないみたいな微妙な気分。

別の感想より

分かる。私も主人公の女の子が苦手だった。ついでにその後輩の男の子も。
というか魅力的な登場人物があまりいなかった。強いていえば、じいちゃん、かもしれない。

話を戻して、『ぼんやりの時間』から、心に留まる内容を書いてみる。

哲学者 串田孫一

ぼんやりしている時間は非常に大切で貴い。
と書いた哲学者。

あの『山のパンセ』を書いた串田は、詩人であり、ナチュラリストであり、画家であり、戦後が屈指の思想家だと私は思っている。

ぼんやりの時間/辰濃和男


串田さんは、一本の木に会いにゆく話を書いている。
いくつか紹介されたフレーズ。

その木の姿が浮かんでくると、一日の休みを作って、きと共に過ごすために出かけていった。駅から歩いてニ時間足らず、またやってきたことを遠くから知らせるために、大きく手を振りながら、しかし、かけ寄ったりせずに、ゆっくり草を分けて行った。

ぼんやりの時間/串田孫一の引用 

ぼんやりするのは、ちょうど蛹の時期にあたると思っていい。
蛹は幼虫から直接羽が生えて空に飛び立つ訳ではない。羽化するためには、蛹となって静かに瞑想しているような長い時期がどうしても必要である。

ぼんやりの時間/串田孫一の引用

ただ、私など蛹のまま、羽化もせず、一生を終えてしまいそうだ。

以下どんな本があるか検索してみた。

いろいろ気になるから、少しずつ紐解きたい。


詩人 岸田衿子

『いそがなくてもいいんだよ』という詩集。

はがきを出し忘れたら
歩いて届けてもいい
走っても 走っても オリイブ畑は尽きないのだから
いそがなくてもいいんだよ
種をまく人のあるく速度で
歩いてゆけばいい

岸田衿子『いそがなくてもいいんだよ』童話屋

ポストに入れ忘れた葉書。
どこまで歩いていけば、届くだろう。

考えてみて、歩いてなんて無理だ、なんて思うとつまらない。
(冷静に考えてみたら、北海道や九州、いやいや県内でも歩いては無理だろい。)

空想の羽を広げて、
どんな道を歩いて、
お天気はどんなで、
道端にはどんな花が咲いていて、
心地よい風や鳥の囀りを聴きながら、のんびりぼんやりとただただ歩く。
出し忘れた葉書を届けるために。

ピンポンしたら、相手は驚くだろうか。

詩人 高木護

マムシさえ、友達にしてしまう高田護。子供に残せる財産は何かと聞かれ、

・何者にも拘束されない自由。
・一日、ぼんやりしていられること。
・低収入でくらせる体。
・自然たちと仲よくなれること。
・老い、あるいは持病。

高木流財産目録

この高木さんは、著者によれば、

ぼんやり度偏差値が高い。

ぼんやり度偏差値、あげたいものだ。

タイトルからして可愛い。

ぽやっと。

これら2冊は紹介されていた訳ではないけれど面白そうだから読んでみたい。

キャサリン・サンソム

1928年から1936年に東京に暮らしたイギリス人女性。

日本にいると私はよく何十年も、昔の自分の子供時代に戻ったような気になります。日本社会の店舗は、私の子供時代の田舎の生活のテンポより遅いからです。

キャサリン・サンソム『東京に暮らす』

日本人はじっと坐って何時間も同じ景色を眺めていることがありますが、自然を見つめることで、精神の大きな糧を得ているのです。自然に対するこのような姿勢が、心の落ち着きという日本人のおそらく最も素晴らしい性質の基礎にあるに違いありません。

キャサリン・サンソム『東京に暮らす』

昔の日本人は自然ともっと近くて、ぼんやりと心を落ち着かせることが日常的にあった。
近代化により便利になった反面、失われたものもある。

現代人に、ぼんやりする時間は必要だと思う。


深沢七郎

ぼーっとして生きる人だったようだ。

とにかくただぼーっと生きてることだよ。生きる事は悲しいことだとか生きる事は楽しいことだとか思う必要なんかないよ。生きるに値する何かを発見するなんて思い違いをしないで、とにかく漠然と生きることだね。

深沢七郎

川の水が流れていくように、何も考えず、何もしないで、生きることこそ、人間の生き方だと思うね。

深沢七郎

食うためには、自分の食べる分だけ働いてね、後はぼーっとして暮らせばいい。それが人間滅亡教の極意なんだね。

深沢七郎

畑の隅に白梅が咲くと菜の花のつぼみの茎が立っているのが目につく。風がない日のひなたボッコはのんびりしてすぐ眠くなる。ふとんにもぐり込んで、ねて、目がさめるとまた起き上がる。たいがいねている時間は15分から1時間位。歳をとると、そんなことを繰り返している。そういうのんびり寒い日があるとこたつに入ったきり出てこない。

深沢七郎

なんともうらやましい。


他にもソローや臨済宗の老師である山田無文の話などいろんな引用による考察が面白かった。

芋づる式に読んでいくにしても、書き留めるのはまあまあ大変。
最後に引用したものがまとめてあればいいのに。

著者の自然体な文体も好き。
決めつけない
読む人に自由がある
そんな感じ。

感じたこと、思ったことを、
感想文みたいに書くのが好きじゃないから、読む人に委ねたいタイプ。

感じたことって、
正確に言葉にするのが難しい。

正確にってところを突き詰めなくてもよいのかもしれないが、とにかく感じたことを外に出した途端、感じたままのことから、ずれていきそうなのだ。

ともあれ、芋づる式に『ぼんやりの時間』から派生する読書を楽しみたい。

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