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「デザイナーになりたいです」〜子どもの言葉から見えてくるデザイン的なものの本質

「デザイナーになりたいです」
この言葉は、ぼくが美山でやっているウィーラースクールやキッズキャンプに参加してくれている小学生男子の手紙に書かれていた言葉だ。

ご存じの通り(といっても知らない人もいるかもしれないけど)、ぼくは2009年、大阪市内から京都府南丹市美山町という山あいの山村に家族で移住した。そして、その場所を拠点に、子ども向けの自転車教室や、農村景観維持活動などを、ほぼ「趣味」(つまり業務ではないということ)でやっている。

毎週末になると、ここ美山だけではなく、全国津々浦々にウィーラースクールの講師として走り回る事も多く、特にここ数年はその頻度が激しいため、春や秋のサイクリングシーズンともなると、気がつけば週の半分は美山に住んでいないという状況になってしまう。
この趣味の延長(?)の活動で、週の半分も時間を費やすということは、この人はいったいなんで食べているのだろうというのが、多くの人の疑問となるのは当然のことであろう。(よく尋ねられる)
正直、自分でもよくやってるよな、と思うときもある。

実は、ぼくは大学で非常勤講師として収入も得ているが、あくまで本業は、フリーのデザイナーだ。
30数年前、大学を卒業して展示設計関連の企業に就職したものの、わずか1年で退職、そのままフリーのデザイナーとなった。
その後、バンド活動したり、フリーのイラストレーターで日銭を稼いだりしながら、29歳の時、自分でデザイン事務所を立ち上げ、法人格として、かれこれ30年近く、この業界に身を置いている。
気がつけば、一生懸命働いてきた気もするし、好きなことばかりやっていたようにも思うし、とにかく相手がクライアントであろうがなかろうが、思ったことは平気で口にして、なにかとトラブルも多かったこともあり、まあ、大した業績も残していないので、あまり褒められた仕事人生では無かったようにも思う。

40歳を手前にして、仕事と向き合う人生に多少の疑問を感じ出したぼくが「自転車」と出会った。当時、子育てに集中していた時期と重なり、ウィーラースクールを始めたことで、後の人生を大きく転換する。
このあたりの考え方の推移は、後日、また別の機会に書こうと思うが、とにかく最終的に出した答えが、「都会から田舎に活動拠点を換えることで、自分自身の可能性を探りたい」だったことが、京都府南丹市美山町への移住を確定させた大きな理由であったことには違いない。

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しかし、その(個人的)壮大な社会実験に関して言えば、現実はそう甘くはなかった。他のことはともかく、仕事と収入いう面においては、この移住はある意味「失敗」の部類に入るかもしれない。

2008年に美山町で古民家を手に入れ、翌年大阪市内から美山に越してきて10年以上が経った現在、職業としてデザイナーというには、世間に対し少し肩身が狭いくらい、当時よりデザインの受注は減ってしまった。
理由はいくつかあるが、とりあえず一番大きなのは、デザインの仕事に集中出来なくなってしまったことであろう。

週のほとんどの時間を、ウィーラースクールで全国を走り回ったり、居住地美山町での地域振興のためのイベントづくりや、農地保全のための米作りなどに時間を費やす、などなど、仕事以外に費やす時間と労力が多いためだ。
まあ、当たり前の結果といえばその通り。そもそもかなり限定された時間の中で、大阪と同じスタンスで仕事をしろという方が間違っている。

美山町に引っ越してきた当初は、それなりに自然豊かな環境の中でデザインのクリエイティビティをあげよう、インプットの機会を増やして、それをアウトプットに活かそう、などと目論んでいたが、そうは問屋が都合良く卸すわけもない。
田舎の暮らしは想像以上に刺激的で、仕事に集中出来ない上、とにかくなんだかんだと忙しく時間が取られる作業が多い。
そしてなにより、当時のぼくにとって、本業のデザイン業よりも興味をかき立てる『ものづくり』の機会が田舎の暮らしには散りばめられていたのだ。

自分の手で、大きな古民家をリフォームし、家の周囲に畑を作りまくる。
こんな刺激的でワクワクする時間は、長い人生、そう出会えることはない。しかし、その作業に日々時間を費やすので、当然、仕事の時間は削られていく。
おまけに、この頃からウィーラースクールが、各方面から注目されはじめ、全国各地に呼ばれる回数が一気に増えたことも、本業にかける時間が少なくなったことに拍車をかけた。

では、田舎の生活にのめり込んだぼくは、デザインをやらなかったのか、というと、実はそうではなかったりする。
お金を稼ぐデザインの受注は、目に見えて少なくなった(!)とは言え、自分の身の回りのあらゆることを自身でデザインすることで、デザインという行為とは関わっているし、それは今も変わらない。

例えば、ウィーラースクールや、それに関連するあらゆるデザインツールの制作や、美山町などで行う活動にもぼくの様々なデザインが活かされている。その他、様々なイベントの企画から設計、運営に関連する様々なデザイン物の制作など、これらにも自分のデザイン力を、ふんだんに活かしている。

これに関して、実感として感じた出来事があった。
美山移住より間もない頃、自転車の聖地プロジェクトの前身「美山サイクルステーションプロジェクト」を企画した。そしてその企画を町内の理解を得るため、町の有力者にお願いして町内で説明会を開いてもらったことがある。
当時、30名近い町のキーマンとも言われる方々の前で、ぼくの企画をプレゼンテーションさせてもらったのだが、当時のぼくは、地域の重鎮たちが本当に聞いてくれるのかが心配だった。なぜならぼくは、突如移住してきたよそ者だったからだ。
しかし、果たしてそれは杞憂に終わる。

会議中、「自転車で町に本当に人が呼べるのか?」そんな風に、未知の提案に危惧する声も聞こえる中、列席者の中から「おもしろそうだ」という声が飛び出したことを切っ掛けに、「やってみよう」という流れが生まれた。
結果、その後の活動に対し、驚くほど理解が進んでいき、様々な企画が実現化していく。
そしてその後、美山町で自転車を通じた活動「美山自転車の聖地プロジェクト」が本格化することになる。

企画の内容はともかく、今思えば、町の重鎮たちに認めてもらう原動力のひとつとして、「デザインの力」が作用したのも大きかったと思う。
ぼくが何を目指して、どんなことをしようとしているのかを、できるだけ見せ方(デザイン)にこだわったプレゼンテーションを行った。その結果、見せ方の出来映えにも大層感心してもらったように感じた。これは「人に伝えるツールとしてのデザイン」としては、効果が高かった。

多くの人に理解を促す手法としてのデザイン。
このことは、ぼくがずっと携わってきた、職業で培ったデザイン能力が、世の中に役に立つものだという思いを強く実感する体験だった。

この後、様々なデザインツールを駆使し、多くのプロジェクトを推し進めて行く中、折に触れデザインの力をあらためて心から再認識することが多くなったのだ。(町内でのデザイン活動は、概してお金を稼げる仕事にはならないが…)

そして、デザインは、「技術(テクニック)」であると同時に、「思考(thoughts)」も大切だと感じた。

例えば自転車の聖地プロジェクトという、町おこしの活動を進めて行く中で、活動の構造そのものを、デザイン的な思考で考えるようになっていったのだ。

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「どうすれば、自転車が町を元気づけるのか」
例えば、自転車へのアプローチを、自転車だけにフォーカスしないという考え方もそれだった。問題解決に深く到達するため、自転車とはまた別の要素をも積極的に取り込んでいくという手法もこの考えから生まれていく。
これはぼくがこの活動より以前から続けている、ウィーラースクールがもたらす様々な効果が大きな影響を与えている。

美山のような郊外の町に多くのサイクリストを呼び、自転車に乗って町を堪能して欲しいのであれば、まず最初にサイクリストが何を望むのか、その理由はなんなのかをリサーチし、そこにコミット(Commitment)しなければいけない。
例えば、「道がきれいで走りやすい」とか、「景観が美しい」というような要素を具体的にどう守り、結果につなげるのか、である。

美山町は茅葺き屋根の民家が多く残る保存地区がある町として有名だが、それ以外にはこれといった目玉がない。例えば巨大な山、渓谷、湖、温泉、有名な寺社仏閣など、いわゆる観光のキラーコンテンツがないのだ。
しかも鉄道も、高速道路もないという単純に不便な地域である。しかし、原風景とも言うべき、忘れ去られた日本の農村風景はまだ色濃く残っている地域でもある。
そこでぼくが出した答えは、「農村景観の保護」というキーワードであった。そしてその農村の景観の保護こそ、言い換えれば地域コミュニティの強化の結果に他ならない。
つまり、農村景観の保護のプロセスを具体的に可視化し、価値ある体験コンテンツと位置づけることが、この先、美山町のサイクルツーリズムが価値を高める要素として非常に重要なものであり、このコンテンツを複合的に取り組んでいくことで、最終的にサイクリング環境の維持と高価値化になると定義づけた。
つまり、この思考を起点にいろいろな企画やツールをデザインし、散りばめていくのだ。

サイクルツーリズムにおいて、他にはない農村景観を守るプロセスをコンテンツ化していく基本コンセプトに組み込まれたのが、自転車教育(ウィーラースクール)と里山体験を絡めること、もうひとつは、サイクリストによる農業(米作り)への参画だった。
前者は、田舎だからこその優位点を活かして、自転車の教育を進めるもので、後者は、一見出会わない者同士をカップリングすることで生まれる新たな価値の創造という目論見もあった。そのどちらも、里山を舞台に行われることに意味がある。

特に、サイクリストの農業への参画には、農地を「経済的自立」で守るのではなく「この場所が好きな人の思いの集積」で守るという発想の転換があり、それにぼくらが様々なデザインを行い、全体を形作っていく。

その結果、2012年にはじまったウィーラースクールの子どもたちと保護者でつくる「がんばっ田んぼ」という田んぼがその後発展し、現在はタネモミプロジェクトとして、150名以上の家族や団体が参画し、美山町和泉区の圃場面積の約2割弱(11枚の水田、約140アール)を無農薬有機栽培の稲作で守っている。
ちなみに、相変わらずぼくらのこの取組には、行政はまったく関わっていないので、当然公的資金などの投入はない。農事組合レベルでもなく、ほぼ個人活動の集積での延長である。
手前味噌だが、この規模でのこのような取り組みは、全国的に見ても珍しいのではないかと思う。
これらが興味深いのが、この農作業がもとは自転車から派生した活動であり、その問題解決に向かうひとつのデザイン的アプローチだということだ。
まさに、サイクルツーリズムにおける、ぼくなりのアイデア。農業を軸とした、まったく新しいカップリング、まったく新しいデザイン思考そのものだ。

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それ以外にも、美山にサイクルステーション計画という一大事業も行った。
そして2016年秋、サイクリングと地域活動の拠点施設、CYCLE SEEDS(サイクルシーズ)が完成する。

この施設の建設は、クラウドファウンディングで資金を集め、実際の設計から施工まで、ほぼ自分たちの手で行ったもので、美山町内においては、補助金を使わずクラウドファンディングによって資金を調達した建造物としては、初めての成果だ。

CYCLE SEEDSを建設するにあたり、施設のコンセプトからゾーニング、平面計画から立ち上げまでを一環して自分の手でできたのは、もともとの展示設計の業務経験によるところが大きい。加えて、現場を幾度となく経験してきたことや、なにより自分の移住の際にも、大工を手伝って自らの手で古民家のリフォームを行ったことが、この施設の完成に大きな力となった。

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ぼくは、こうした「建物をつくる」だけではなく、「米をつくる」「自転車のイベントをつくる」など様々な「つくる」現場を、また、自らのデザイナーとしての「知識」と「経験」、そして「思考方法」を、実行するとき、できるだけ多くの人に関わってもらうようにしている。
当然、そのまわりにいる子どもたちにも、ぼくらが考え、実行する様をことごとく見せてきた。

『ブラッキーさんという金髪でわけのわからないおっさんが、自分で何でもなんでもやっちゃう。そして、みんなの楽しむ場所をつくっている』

『やろうと思えば、工夫さえすればできないことはない』

こうした、ぼくなりのデザイン思考を視覚的、体感的なメッセージとして、彼らに伝えようとしていたのだ。

さて、
そうして出来上がった場の一つ、CYCLE SEEDSを使って企画した、キッズキャンプというプログラムに何度も参加した小学生が、活動終了後、送ってくれた手紙に、冒頭の言葉が書いてあったというわけだ。

彼はその手紙でこう綴る。

「ぼくは将来、美山に住んでデザイナーになりたいです。デザイナーになって、家を建てたり、田んぼを作ったりしたいです」

彼は、どうやらデザイナーという職業が、大工や農業だと思っているようだ。

だが、それは間違っているわけではない。
デザインは、一般的な発想にとらわれない、

「ものをつくりだす、知恵と経験と技術をもった人」
「生きていく仕組みを考える思考方法をもった人」

これらがデザイナーの定義、デザイン的思考の定義ではないだろうか。
ついでに言うと、これらに「自由」を付けたらもっと魅力的だ。
職業デザイナーをよく知らない子どもだからこそ、このある意味、本質的なことに気づいたのではないかとも思う。

デザインという言葉にはもともと「計画する」という意味もある。
ものをつくる、生み出すという、本質的な行為がすべてデザインなら、家を建てる技術や、農作物を育てる技術を持ち、工夫して問題を解決できる人は皆、デザイナーだ。
なにより、自由に生きようとするその「生き方」が、そもそもデザインではないだろうか。
ぼくはこの後、地域の人口減少問題に立ち向かうためにデンマークとの教育交流を進めるわけなのだが、これもまたぼくの中ではデザイン的思考から始まる行為なのだろう。
彼の手紙を読んであらためてそう思った。

子どもからの言葉は、意外にもいつも本質をついているし、そこからいつも新しい発見をさせてもらっている。


子ども向け自転車教室 ウィーラースクールジャパン代表 悩めるイカした50代のおっさんです。