好きと嫌いと④

それでさ
昔にどこかで読んで、
すごい!って思ったのが
(ぼくとよく話す人は知ってると思うけど)

好きをひたすら書き出せ!
さらに嫌いをひたすら書き出せ!
ってのがありまして、つぎに
好きはそれでよし!
嫌いは反対の意味に書き直せ!
それが上っ面をひっぺがした崇高なる理想の自分様だ!って話があったんだよね。
うん、書いてて思ったけどこんなだっけな?
まあ、ほぼそんな感じでさ。
で、実際に試してみて、
そのひっくり返して好きに変えられた“嫌い“の成れの果て欄の内容の恥ずかしいこと。

なんかこう、知らない間に隠してたわ。
ぼくの理想の標高タケーって感じだったんだよね。

そこでまず感じたのは
アウトプットは大切ってこと
できれば物質化。何でもいいけどこれはもはや創作だと思う。
ほんともう自分のあれこれがよくわかって恥ずかしいったらありゃしない。
やればわかる。やらないとわからない。おまけにやったことある人の気持ちもわかる。

他にも
自分ってさ、やる気出せばしっかり観察することが四六時中できるじゃん?
だからその気になればいくらでもデータが集まる。問題としては主観的な部分が増えがち。

で、他人にそれしてたらただのヤバい人だけど、
時には反面教師にもなってくれる他人がひょっこり目の前に現れることがある。
ザ・ボーナスタイム。
自分の存在の確認って世界や他人が存在してくれて初めてできることだから、ほんとにありがたい。
感謝しかねえ。
そんなボーナスタイムをがっちり担ってくれてるのが、その嫌な人だったりする。
そう捉えれたらまあ、ほぼ嫌いはクリア。
身を挺して材料提供ありがとう。

なんだか性格悪いな。いや悪いんだけど。
でもこれは本当にそう思う。
老若男女、様々な人から学べることがある。もう例もあげたくならないくらいに。
問題はそれら精神的苦痛をお届けしてくる人たちを受け入れられる、多少なり接することに耐えられる、受け流せる…なんて言うんだろう、胆力というか器が自分にあるかどうかだと思う。
なんと言うか、本当はほとんどの場合わざわざ“嫌いになる必要なんてない”んだよね。

直接害がある状況だったり、本当に気持ちや体力がギリギリで、自分を守ることを優先しないといけない時、そんな時は排除や逃走がとても重要なんだと思う。そうしないと正しい判断はきっとできない。

(ちろんこんな話は、今の自分がある程度平和な環境の中にいるとしての話だよ。)

だからと言って、いつも逃走や排除だけだと、一向に自分に進歩や成長がないし、人生がずっとジメジメしててきっとつまらない。そして意識的に、無意識的に逃げ回る(自分の意思がまるでしっかりあるような演技をしながら)とか、陰や離れた場所から他人のアクションに物申し続ける人に成り下がる。
いつの間にか、自分の人生のメインステージから降りてる。
はっきり言うと確かにすごくそれって楽でいいね。
ただ問題はそこの世界って何も生み出せない、しかも進歩もできない無限ループなんだよね。

つづく

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