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自由とは

自由という感じは、自ずから由とすると書く。つまり、自分次第でいかようにも変えられる状態のことを言う。しかし、自分の知覚や感情を由とする場合、例えば、あーかゆいという風に、無意識に体を掻いてしまう場合や、怒りに自分を抑えられない場合、それは自由というのか?やはり、理性が自由には必要な気がする。

理性とは?

理性とは、自分が思うに、刺激を選べる状態だと思う。内的刺激(知覚や感情)、外的刺激(周囲の音、周囲の光景)などに受動的になっている状態から、受動も能動も存在せず、刺激とともになっている状態とでも言おうか。まず、刺激というのは、ただの電気信号である。音にしろ、光にしろ、かゆみにしろ、味にしろ、脳に入ってきて初めて、それを刺激と人は認識する。そして、音波や電波や、なにかしらの電気信号によって、人は刺激を認識する。そして、必ず、刺激に対して、思考する時間というのがあり、そのあと、行動に移す。この思考する時間がとても短くなっている状態が、理性がない状態である。刺激に受動的とは、刺激を刺激とも思わず、ただなされるがまま、自分のやりたいようにやる、ロボットのような状態のことである。例えば、自分の目的のためには、手段を選ばない、刺激を認識しない、つまり、恐怖や、悲しみなどの感情を感情と認識しない、サイコパスのような状態のことである。一方、刺激に能動的とは、刺激に囚われている状態である。例えば、刺激などの知覚や感情を重大な事として捉え、それをもって、現在に適応できないと思い、必死で、取り除こうとする状態、つまり、強迫観念である。一方で、刺激とともに生きている、理性的状態は、刺激を刺激として捉え、それを小さくも大きくも見ず、ありのままの強さで見て、例えば、膝蓋腱反射など、どうしても動かざるを得ない場合は、そのままにしておき、それに囚われない。ただ、知覚や感情に囚われず、思考していける状態のことである。

人はなぜ自由を感じないのか

自由を感じないということは、つまり、自分でいかようにも変えられないと思っている、どうせこうなるだろうと先が見えているように思うからだ。例えば、お腹がどーんと重い、体が重い、この感覚があると、いつもやる気が出ず、どうせ、今日も、なにも為せないだろうという未来を想像してしまうのである。それは、ある意味、体が重い感覚と共に生きていない状態、体が重い状態に囚われているのである。一番簡単に、自由を感じれない原因を探す方法は、「自分はなぜ、現在を同じことの繰り返しと考えているのだろう?どの刺激を繰り返し考えているだろう?」と気づくことである。人は、同じ刺激について考え続けることで囚われる。しかし、ひとたび、変わり続ける刺激と共に、生きることができれば、そのように、些細な刺激のことなど、どうでもよくなる。例えば、家の中では、お風呂に入っているときなど、体中がかゆくなるが、塾や学校に行っているときは、全然かゆくならないことなどよくあるだろう。一定の緊張感があると、そのような些細な刺激に囚われることは少なくなるのである。家にいるときに、変わり続ける刺激を与えるためには、例えば、本を読むとか、動画を見るとか、運動をするとか、人と会話するなど、変化し続けるコンテンツに触れることである。しかし、そのコンテンツを始める動機が、知覚や感情の刺激によって、反応的であってはいけない。その瞬間の思い付きでやるのではなく、前々からやろうと思っていたことをやるとよいのである。思考が動機になればよい。

長期的思考と短期的思考

長期的思考とは、途中で考えていない時間(脳のデフォルトモードネットワークを用いた時間)も存在することである。デフォルトモードネットワークとは、脳が勝手に考えてくれている状態である。自分だけで考えていると、知らないうちに、何かしらに囚われてしまうか、同じ思考パターンの繰り返しになっていることが多い。アイデアというのは、全く異なる経験の化学反応だと思っている。例えば、色んな人と会話すればするほど、色んな知見が得られて、アイデアが生まれるのもそうだろう。必ず、アイデアを生む、長期的思考には、考えていない時間が必要である。逆に短期的思考とは、ある刺激が条件となって生まれる変わらない思考のことである。例えば、強迫観念や依存症などがそうだろう。こうしなければならないなどと、行動も促すこともある。短期的思考に陥っているときは、それが間違っていることに気づくことができない。その刺激がとても重要なものに思っているからだ。だから、他の新たな刺激が起こったとしても、自ら望んで、その刺激に囚われようとする。それが恐怖を伴っても、快感を伴っても、である。そのような短期的思考を失くそうとすると、それも強迫観念になるので、短期的思考はあっても、まあええか、と考え、それも持ちながら、長期的思考を考えるようにしようと思うことが大切である。この前の記事にも書いた、主要な矛盾に力を注ぐことも大切である。現状、自分にとって、力を注ぐべき課題は一つくらいしかない。それに力を注ぐと、どんどん刺激が移り変わって、他の些細な刺激のことなどどうでもよくなる。刺激的に生きるにはそれが一番良い。麻薬やSEXよりも刺激的に生きれることがわかるだろう。

そして自由に生きるには

自由とは、自分でいかようにも変えられると思っていることである。これはどんな嫌な事(地震、津波、いじめ、倒産、離婚、近しい人の死など)があっても、長期的思考はなくなることはない。むしろ、それがきっかけで新たな知見が得られることもある。そして、成功体験を増やしていくたびに、自分はやればできるという感覚が身につく。成功体験というのは減ることはない。なぜなら、過去は変えられないからだ。そして、無くなることがなく、変わり続ける長期的思考を持ち続けることが、自由に、不確実的に生きていくことである。

お知らせ

実は、作曲してます。MVあげてますので、気になった方は、見てくださると大変嬉しいです。



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