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幕末動乱まとめ - 1005文字

沿革

1853年 ペリー来航(この時期に、第12代将軍・家慶が亡くなる)
1854年 英露米と友好条約を結ぶ
1858年 戊午の密勅
1858年 安政五カ国条約
1858〜1859年 安政の大獄
1863年 第14代将軍・徳川家茂・次代将軍・一橋慶喜等は、3000人を率いて、孝明天皇を守るが、石清水八幡宮には、源氏神前に勅令を受けるのを避ける為、詐病を用い、行かず
1863年 9月 新撰組により水戸派一掃(孝明天皇が5年前に、戊午の密勅において、幕政改革を水戸藩に、直接命令した)

安政五カ国条約

米・蘭・露・英・仏と幕府が結んだ、天皇を無視した不平等条約
1858年 3月19日 堀田正睦は、不平等条約の指示を求め、上洛(京都に入る)する
1858年 5月3日 孝明天皇は条約指示を拒否
その後、堀田さんは、無理矢理不平等条約を五カ国と締結
1858年 9月14日 戊午の密勅
1911年 日露戦争後、明治政府により、不平等条約は解消

戊午の密勅

孝明天皇が水戸藩に幕政改革を直接指示
(水戸藩第9代当主は、最後の将軍・徳川慶喜の実父)

安政の大獄

不平等条約後、第14代将軍を家茂に決定
一橋派を弾圧

尊王攘夷

天皇を尊び外敵を却けようとする思想
水戸学・國學に影響

新撰組の結成

京都所司代・京都町奉行のみでは無理
清河八郎(1830/11/24〜1863/05/30)の策で、浪士組(新撰組)結成

徳川家茂の上洛(京都へ向かうこと)の際、守ったのが、新撰組。

徳川家茂

13歳時に第14代将軍となる。
1863年 水野忠精・板倉勝静・若年寄田沼意尊・稲葉正巳と共に3000人を率いて、上洛(京都へ向かう・1634年以来)し、孝明天皇を守った。
天皇と共に石清水八幡宮に行く予定であったが、詐病で欠席。
源氏所縁の神前で天皇に直々に命を下されることを避けたとされる・一橋慶喜(次代将軍)も急な体調不良を訴え欠席

孝明天皇

明治天皇の実父
父は、仁考天皇
母は、正親町雅子(藤原北家の支流…)

新撰組

試衛館派(近藤勇・土方歳三等)
水戸派(芹沢鴨等)
は、京都残留を主張

1863年 9月 試衛館派が、芹沢鴨・平山五郎を暗殺、平間重助は脱走、野口健司は12月に切腹し、水戸派は一掃。

徳川慶喜

家茂の次代将軍
1847年 9月1日 一橋家を相続
1848年 12月1日 慶喜に改名
徳川家慶(第12代将軍)から、徳川姓を賜る。(元は一橋姓)
父は徳川斉昭(水戸藩・第9代当主)
母は吉子女王(霊元天皇の第12王女)

吉子女王

以上

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