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日常と非日常

タイトルの通り、日常と非日常という言葉があるが、
もはやその二つを明確に分ける必要がないと思った。
本記事では、その理由を述べていく。

①時間の過ごし方は日々刻々と変化する

 決して、日常と非日常という考え方が自分の中に存在しないわけではない。
例えば、私の場合
 日常=家で過ごすこと
 非日常=旅に出ること
と、ざっくり分けられるが、そのように分けることに自分の時間を注いでいない、あるいは、他の人に「日常と非日常の違いは何ですか?」と聞かれた時のために、その答えを用意しておくくらいのスタンスである。 
 仮に、日常と非日常を明確に分けられるとしたら、それは、自分の時間の過ごし方に変化がないことや、もっと大規模な話になる可能性もあるが、自分が変化しないなどが前提にある考え方であると感じている。
 自分の興味関心事が変わることはあると思うので、その変化に目を向けた方が良いのではないかと感じる。例えば、「ゲームをすることが日常である。」などと決めるのは悪いことではないが、それはずっと変わらないという思い込みにつながるかもしれないと私は考えてしまう。ゲームを以前はしていたが段々しなくなったとしたらそれは、「ゲームをすることが日常ではなくなった。」ではなく「ゲームをすることよりも楽しい・大事なことをするようになった。」と表現する方が私は心地良い。

②目の前のことを楽しめない

 これは私の思い込みに対しての反省が含まれている。以前は「旅行好きな人は日常を楽しんでいない」と非常に凝り固まった考えをしていた。なぜかというと、日常と非日常をシーソーのように考えていたためである。
 説明するまでもないが、シーソーは片方が下がればもう片方は上がる動きをする。先ほどの凝り固まった考えというのは、「旅行という非日常と日常をシーソーの両端にそれぞれ載せ、片方が下がった分、もう片方は上がるというイメージを思い浮かぶ。」、つまり「日常を下げる(楽しんでいない、つまらなく過ごす)分だけ、非日常を上げる(楽しむ、好きだと思う)。」ということである。今思えば、そもそも旅行 = 非日常の時点で視野が狭く、日常のことを何も知らないのに楽しんでいないと勝手に決めつけていたので、何やってたんだかと感じる。
 先ほどのシーソーの考えによって、目の前のことを楽しめないことにつながると考える。なぜかというと、片方を下げている時間は明らかではあるが楽しめていないことが分かるが、楽しんでいるはずのもう片方の時間も、片方の犠牲の上に成り立っていると感じる瞬間がゼロではない可能性があるためである。犠牲にしたことを思い出すのは、現在ではなく過去のことを考えているため目の前である現在に集中していない、楽しめていないと言える。
 私がシーソーの考えを脱却できたのは、「旅行好きな人は、日常を楽しんでいないわけではなく、あくまでも色々な時間の過ごし方のうち、旅行という一つの選択肢を取っている。」と考えられるようになったためである。言い換えると、「旅行以外を犠牲にするわけでなく楽しみにも置くわけでもないという、プラマイゼロとし、旅行をプラスとしている」と考えるようになった。シーソーの考えは、片方はマイナスでもう片方はプラスとすると、その考えからは脱却できつつある。プラスとマイナスについては、話し出すと止まらなくなるので一旦ここで抑えておく。

まとめ

本記事では、日常と非日常を明確に分ける必要がないとした理由について述べてきた。日常と非日常を分けなくても良いなと考えられるようになったということは、言い換えれば、自分が変化しながらも目の前である一瞬の時間を大事にできるように、以前よりはなったのかなと感じる。
最後まで読んでくれてありがとう。
それでは、また。

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