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考えないことは危険だよ・・・

休みの日はちょっと贅沢して朝風呂に入ることを楽しみとしています。
まぁ、朝風呂に入ることを贅沢と言えるほどの小市民ですので、美味しいものを食べるとか言うのはもうお話の他・・・それでも、個人的には満足しているわけです。
それは、ゆっくりと風呂桶の中で思索する時間が作れるからです。

思索といっても、ただぼんやりと頭もリラックスさせて湯船の中で浮かんでくる言葉を連想ゲームよろしく、こんなキーワードがあるなぁ、そういえば。こんなことも。。。

そんな風に頭で意識しながら考えるようにしているわけですが、色々な言葉が浮かんでくるわけですね。そして、その言葉がまた消えていく。
ただ、忘却してしまうと言うよりも、倉庫に入っていく・・・・そんなイメージのように感じます。
其れが時々、あらゆるシーンで蘇るわけですね。
既視感というわけではないのですが、思わず天上から声がするみたいな。
そんな感じなんですね。
いわゆる潜在意識というか、今までの蓄積がそうしたときに適切に私をサポートしてくれているように感じています。

それと、面白いのは今までの蓄積があるからか、新しいことにチャレンジしても、その肝となるべきというか、要点がよく見えてくるようになりました。
この部分を押さえればいいんだなぁと・・・それが良く判る。
そんな感じなんですね。

ですから、取り組むことに対しても怖さがないわけです。
逆に抑えるべき点がよくわかるので、闇雲に色々として意味不明になると言うことはないわけです。

そしてこれは、読書の効能であると、個人的には思ってしまいます。
本を読む習慣がある子供というのは、活字に対して抵抗がないですし、絵本と違って字ばかりが増えてきますので、自らその場面を想像したりしながらと言うことで、目で字を追うだけではなく、その場面を連想することが出来る。
頭の中で、目で追う、活字を読んで理解する、その場面を想像すると言う行為が同時に行えるわけですが。
これを、動画でとなるとどうなるでしょうか?
目で追う・・・・・・・だけで終わってしまいますよね。
目は単なる情報の受像装置であり、脳には動画の内容だけが映し出される。
そこには、自分で活字を見て意味を理解して、その場面を想像してと言うことは全て省略されてしまいます。
これって、タイムパフォーマンス的には良いのかもしれないけれど、自らを考えるという部分がぶっ飛んでしまうのじゃないかと思ってしまうわけですね。
特に昨今では、AIによる検索がGoogleにとっても脅威であるとして、話題になっていたようですが。
人間も然りで、何でもかんでもAIにお任せしちゃおうとなると、想像力というものが欠如した人間ばかりになってしま右様な気がするわけです。

栄枯盛衰は世の習いで、全てのものは最初があれば終わりがあるように、漫画の世界ではないですがAIに支配されて人類は終わる。・・・なんてことにならないように切に願いたいものです。
為政者が、AIの判断で、政治をするなんて事が無いように、AIの判断で経営をするなんてことが無いように。

でも、実際にそうなる危険性というのは限りなく近づいている様な気がしますね。

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