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メダルゲームと娯楽の話(副題:メダルゲームのアフターケアをする)

※これは昨年12月に起きた中学生の器物破損事件を受け、メダルゲームのイメージアップを図ってlivedoorブログの方で掲載したものの再掲
※画像は事件と関係ない
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まず予告にあった店舗が実被害に遭わなかったことに対して幸いに思います。

メダルゲームの基本的な性質

記事には

メダルゲームをして負けが込み

という表現がありましたが「メダルゲームに勝ち負けがあるの?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。その答えとしては、考え方によっては……いや、多くのメダルゲームプレイヤーにとって勝ち負けという概念は存在します。自分の持っているメダルを使うという構造上、そこには手持ちメダルの増減が発生します。増えれば勝ち、減れば負けという解釈そのものは殆どの人に浸透しています(減っても増えても楽しいからOKと思っている人ももちろんいます)。

娯楽は自分を顧みてから

これを聞いて「射幸心」というワードがなんとなく頭に浮かんだ人もいるかもしれません。負けて腹いせという言葉はまさしくこの言葉と何らかのつながりがあるように思えます(直接的な意味の一致ではありませんが)。
そもそも、メダルゲームは1つの娯楽です。これは周知の事だとは思いますが私は枕詞に「真の」を付け加えたいぐらいに思っています。パチンコ・パチスロとメダルゲームを比べる方もいらっしゃるかもしれません。それらの大きな違いは(もっとありますが)当然換金性です。前者はグレーなギャンブルとして見られることが多々ありますが、後者はホワイトな娯楽そのものです。その「娯楽」というフィールドにおいて怒りを覚えることなど一見ないように思えます。しかし、現実はそう甘くはありません。それを楽しむのにお金が要求される娯楽もあるのです。そして、メダルゲームはその性質上、プレイヤーの行動がそれ相応に「勝ち負け」に直結してきます。いくら払ってどれくらい遊べるかは、ある種プレイヤー次第な部分もあるのです。大金を払ったのに、それに見合う娯楽を獲得できなかったとしたら、怒りを覚えることもあるはずです。しかし、メダルゲームはそれを受け入れなければならない。なぜならば、そうなった原因の半分以上は自分なのだから…。

そして、このようなお金が関わる話において、まさに青少年の周囲には悩みのタネがまかれることになります。自分の使えるお金が無限にあるわけじゃありませんからね。そういう状況においては、被疑者の立ち位置とそのシステムが根本的に噛み合うものでなかったのかもしれません。そして、このことはゲームというフィールドに限った話ではありません。要するに私が言いたいのは「自分の現状を見てから行動を決めなさい」ということです。偏見の風当たりの強い弱いに関わらず。

さいごに

メダルゲームという概念を作ったシグマ社(実際の会社沿革はやや複雑なので略)の設立者、故・真鍋勝紀氏は(ソースは忘れましたが)
「メダルゲームは金品に交換できないからこその魅力がある」
という旨のことを仰っていたといいます。独自解釈ですが、お金の増減に支配されずに純粋な娯楽としての魅力にあふれているという含意の言葉のように思います。上述の通り、自分の行動選択によって決定する要素が大きいというのはとても魅力深いことであると私は感じます。それだけでなく、単純にメダルが増えると楽しいし、面白い。
“遊びゴコロにソフト&ハード”
この言葉は、シグマ社の殆どのメダルゲーム筐体に自社のロゴと共に表示されています。プレイヤー、ゲームセンターを運営するオペレーター、メーカー関係者、ひいては「娯楽を全く必要としなくても生きていける人以外」のすべてがもう一度この言葉の意味を考える必要があると思います。

ニュース記事(リンク切れ):https://www.kobe-np.co.jp/news/jiken/202112/0014941255.shtml

ちなみに

本文でパチンコとパチスロをディスっているように見えますが、僕はパチスロそのものは嫌いじゃないです。凱旋とかコンチ4Xとか最高です(前者はゲーセンでしかやったことないし後者はエアプだけど)。ただ、単純な娯楽として見る場合は好印象ですが、ギャンブルとして見たときはあれに思います。