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決定された世界―ソーシャルゲームの持つ矛盾

※推敲してないので読むのに疲れます

僕はスマホでゲームをしないわけではありませんが、スリザーリンクだったり対戦トランプゲームだったりで、前世代の家庭用据置・携帯ゲームでもできるようなものです。つまりはソシャゲをやらないわけなんですね。それにはゲームのジャンル・進め方に対する僕個人の好き嫌いもしくは苦手意識があるからなのですが、それとは別にソシャゲにはストーリー的な部分でもっと奇妙な要素があるように思えます。

登場人物と化すプレイヤー

プレイヤーは主人公としてゲームのストーリーの中に入っていって、登場するキャラクターたちとすったもんだするわけですが、ここで重要なのは、そのキャラクターたちは、あなたとは違う別のプレイヤーにとっても同様に存在することです。裏を返せばキャラクターが変わらない中で主人公もといプレイヤーだけが人によって違う特異なものなのです。これまでもプレイヤーはマリオとして、クラウド・ストライフとして、スティーブとしてゲームをしていく、なんてことは一般的なものでしたが、彼らはある程度のパーソナリティを用意されているか、プレイヤーが彼らにパーソナリティを必要としていませんでした。あくまでもプレイヤーは「操作主」であるのです。一方、ソシャゲは(アートワークがあったりしますが)主人公に対しパーソナリティを決めておらず、「あなた自身」という側面が大きく強調されています。プレイヤーは第三者として、ではなく当事者としてゲームに参加しているのです。

複製された世界に取り込まれること

そして、上述通り主人公が違くてもキャラクターは変わらないし、アドベンチャー形式であれば(同じ操作や選択肢を選べば当然)同じ行動を取ります。選択肢で変化するとはいえその行動は固定化されていることになります。プレイヤーは登場人物の一人としてそのゲームの世界観という定型化された中に取り込まれていくわけです。
用意された世界観に「あなた自身」が放り込まれる。よくよく考えると、これはちょっと変に思えます。
「用意されたレールに沿って人生というストーリーを歩む」ということに私はネガティブな印象を持っています。自己の行動が大きく介入しないことで、人間としての行動力、思考力、想像力というのが封殺されているというのに不満なのかもしれません。それか、他の人間が体験したのと同じ道を歩まされている、のが気に喰わないか。……それをソシャゲのプレイヤーたちは易々と受け入れています。

関係性の定義

これはもういろんな所で言われていることかもしれないけど、ソシャゲって(多分)ストーリーを作りやすくするあまり、主人公の立ち位置を最初から決めがちです。それに伴って、登場人物と主人公の関係も決まっているのが大抵です。でさ、主人公の(その舞台の社会内での)ポジションが高いのが殆どじゃない?それを僕はなんかこう変に感じてしまう。なんでかというと、何かの結果には過程があるわけじゃないですか。主人公がそのポジションにつくまでの過程をそのストーリーの中でプレイヤーがDEEPに触れていないのって、どうなの?って思うわけです。過程をすっ飛ばして結果だけを求めるのはすなわちうわっ面だけの薄いもんなんです。

さいごに

単なる傍観者として時には静観、時には批評を与える小説、自分の行動が結果と直結し、勝利敗北のエクスタシーを味わうゲーム。傍観と参加、批評と体験。対照的要素を持つ2つを織り交ぜることは構造的にうまくいかないのは明白なはずです。
「人間って一人ひとり違ったりするのに、なんで考えもなしに定型化されたストーリーに、しかも過程も知らんポジで丸々参加せなあかんねん」
僕はこんな気持ちを持っているんでしょう。