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子供は要らない。という話。

私は多分子供が嫌いなんだと思う。

確信が持てないのは、私にも子供をかわいいと思う瞬間はあるからだ。
ただ動物を愛でる時の気持ちに似ていると思う。
檻の中、ガラスを隔てた奥、自分のじゃなく生命の責任を持たなくていい時のみ得られる感情に近い。

歳の離れた近親の親戚がいる。
その中で、比較的私は一番『上』という扱いで育った。
一番近いのが一歳差。一番下は15歳下。
だいたい、9歳下の子と12歳下、15歳下の子の三人の面倒を中学生の頃までよく見ていた。
近所には公園があったので、遊びに来た知らない子供と遊ぶことも割とよくした。
幼少時の私は人見知りとは無縁だったのだ。
知らない子、一回しか会った覚えのない子、数回遊んだけど名前も思い出せない子の家に行ったことなど、男女問わず数知れず記憶にある。小学校高学年の時には学校行事的な低学年のお世話の際に懐かれた小1の子に中学生になってからも纏わりつかれて家にまでお邪魔させてもらった記憶がある。今思うと本当に距離が近い。そういう時代だったのかもしれない。(わからん)
余談だが、その子のお誕生日祝いで頂いたアップルパイがとてもおいしくて食べられなかったアップルパイを好きになったという記憶がある。その節は本当にありがとうございます(絶対に見てない)
高校に入る頃には「子供は嫌い」で通っていたのだが、保育士志望の友人の繋がりでとあるバンド仲間の家に泊まりに行った際には、会って数回の友人よりも初対面の私が仲間のお子さんに懐かれていて優越感を覚えた。

私には特撮という男の子に対するコミュニケーション知識があるのだ。これをもってすれば大抵の男子は手籠めにできる秘儀である。子供に好かれたい人は履修するといい。
3歳ぐらいから5歳ぐらいまではこの知識で仲良くなれる。6歳を超えると、ゲーム。3歳より下なら男女問わずアンパンマンだ。

毎度のことながら大いに話が逸れたが、私は子供が好きではない。ということにしたい。
電車で泣いている子がいたら、仕方ないとは理解しながらうるさいと思うし、黙ってくれと思うことがある。
人が多い空間にイライラしているという側面から誘発されるものであり、直接子供に対する物ではないと分かってはいる。
ファミレスやバイキングなどの飲食店で走り回る子供を見ると苛立つ。
汚い手でぶつかってこられた日には若干の殺意すら沸く。親に対して。これも私の沸点が低いのが原因だとは思う。子供は悪くない。
元気で良いし、騒がしくていい。私のいないところでは大いに元気に成長してもらいたいと思う。わたしみたいな汚い人間に触れることなくスクスク育って欲しい。ただ私がゆっくりしたい場にて存在してないで欲しいと思うのだ。

先日数年ぶりに学生時代に知り合った年上の友人の家へお邪魔した。
4、5年前には生まれて禄に言葉もしゃべれず、人見知りをしていた女の子が6歳になっていて、お腹にできたと言っていた二人目は4歳の女の子になっていた。
年月は恐ろしいと実感したが、娘さん達は来訪を大いに喜んでくれ、たくさん遊んでくれた。
自分の中に存在していて認識していたはずの子供への嫌悪感は全く現れず、大いに安心したし、とても可愛かった。
身内の子供は可愛いと思う。それだけなのかもしれない。
ちょっとだけ子供が欲しいという気持ちが芽生えてしまった。
そのことが私は恐ろしい。
どんなに懐いてもらっても、人様の子供は人様の子で、母親第一なのだ。当然のことだ。
それを少し、羨んでしまった。
自分の中に、その羨望がずっと存在していることは知っていた。
私はずっと誰かの一番になりたい。
手っ取り早いその方法が、子供を産むことなのだと改めて気付かされてしまった。
私の中の小さな子やペット動物を慈しむような気持が『母性』なのだとして、それは決して私の意思ではない。
私の意思はあくまでも『子供は嫌い』で『欲しくない』ものなのだ。
産めば私の中に確実に存在している加虐心が牙を剥く。8割の母性で覆い隠しても、2割が何かしらの折に必ず姿を見せてくる。だから、絶対に産んではいけないのだと思っている。
にもかかわらず、私の『女』としての何かと体が、子孫を欲して動いていると感じる瞬間を感じて恐怖を感じる。あまりにも気分が悪かった。
多くの人はそれを何ら疑問も抱かず、当たり前に受け入れて、家庭を作って子供を産んでいる。

尊敬はしている。
だけど、私にはそれがとても怖い。

さらに言い訳を重ねようと思う。
私はお金に対して感覚がゆるい。
数年前までまともに貯金というものもできなかった。
近年は人様のお金で生活させて頂いているため、私と扶養者の二人が何とか食べて生きていけて、ついでに将来的な生活のために少しずつ蓄えもするようになった。
貯金ができなかった時期に、子供ができてしまいそうになったことがある。
その時は、お金がなくても稼げばいい。何とかなると言い聞かせはしたが、内心絶望しかなかった。
それでも、当時は子供が欲しいという気持ちがゼロだったわけではないので、嬉しくもあったが、同時期に妊娠中だった知り合いの生活と比べたり等もして大いに鬱な気持ちとナイーヴな感情で苦しんだ。
のが関係したのかどうかは定かではないが、結果は初期流産だった。
直後は凹みもしたし、苦しみもしたが、今は幸いだったと思っている。
その後も金銭関係では大いに苦しんだし、精神的にも安定していなかった。
円満で幸せな子育ては絶対に無理だったと言える。もちろん、生まれていたらまた違っていたのかもしれないが。
私が辿った結果は、悪い方だったので、生まれなくてよかったというしかない。

そして、カフェインやアルコールを我慢して、見えないお腹の中を気にして過ごした1ヶ月は本当に辛かった。
妊娠の発覚から自分の体が自分の物じゃなくなる感覚は想像してもらわないと分からないと思う。
ほんの少しの腹痛にすら気を遣ってしまう。
安定期等々はあると思うが、それが10ヶ月も続くのだと思うと途方に暮れてしまう。そしてそれがスタートの準備運動に過ぎないのだと思うとあまりにも悲観しか生まない。

この文章を読んでくれている人が男性で、父親ならば。或いは父親になりたいと漠然と考えているのならば、パートナー(仮想含む)には大いに感謝と慈しみを持って欲しいと思う。

子供の出産から成人までの総額は1億だと私は聞いたことがある。正確?には1千万だとか、2千~3千万だともいうが、学費だけの話なのでは?とも思うので正解は知らん。産むつもりもないし。
ただ私は1億あれば安心なのだろうという認識を持っている。
間を取って5000万ということにしよう。
20年。出産時期も合わせると22年。
負債だと考えると、もっと分かり易いだろうか。
貯金0から5000万の20年ローンの家を建てることを、良しとする人はあまりいないのではないかと思う。いるのかもしれないが。
だけど、『出産・子育て』だと考えると『5000万の20年ローン』を気軽に負える人は多いのだろう。仮に金額が2000万だとしても1億だとしてもわたしの感覚が変わらないのは、そもそも「わたしが後22年も生きていたくない」という感情も大いに関係はすると思う。
パートナーが子供を欲しいというのであれば産んでもいいが、産んだ瞬間に人生を終えるか、一番可愛い時期だけ味わって人生からお暇したいと思う。
実際に子供を産んで子供のことを考え始める母親になればそういうわけにもいかないのだろうし、考え方も変わってしまうのだろう。
それも恐ろしい。私の感情と願望は私の物なのに。だからこそ私は「私が子供を産むべきではない」と考えているに収束するのだが。

「子供を産みたくない」というと「子供は可愛いよ」と大抵の母親は言う。
私はそれに対して「そりゃそうだろう。自分の腹から生まれた分身のようで自分に対して無償の愛を感じて感じさせてくれる存在なんだから」と思う。
産めば可愛いのは当然なんだと思う。そういう風にできている。生き物の遺伝子が。
それでも、虐待死は起きる。育児放棄が自然界にも起こるように。
自分は絶対に大丈夫と考えている人がいるのなら、そのことの方が子供を産むよりも私は恐ろしいが、それはまた別の話なので置いておく。
体が「女性」の生き物は、自然の摂理と遺伝子によって『母親』になるべく体が存在しているのだ。
感情心情に関わらず。
それを押し止められるのは感情と心情と自分を取り囲む現実だ。
その理性の枝を失わないように、周りの時世感に流されないように必死にしがみつくしかない。

世の中の当たり前を生きている人間はみんな本当にすごい。ぜひ誇って欲しい。

そしてできれば私みたいな惰弱勢を見下さずに憐れんでくれれば幸いに思う。(ありえないことだな)

私はできれば、枝にしがみついたまま息絶えたいと願ってやまない。

よくわからないんですけど美味しいもの食べます!!