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「理解しなくていい」「放っておいて欲しい」と「孤独や寂しさ」との掛け違い

昨年の終わりに触れた作品たちの中で、「理解しなくていい」「放っておいてくれたら勝手に生きる」といった言葉に触れました。
その作品はどちらも『多様性』について触れており、どちらも「生きづらい」人たちの話でした。
そして、その「生きづらさ」もその言葉も自分の中にある感情でした。
けれども、その作品の中に出てくる登場人物たちが抱えているものの一つに「孤独」があると感じました。
「生きづらさ」を抱えるが故の「孤独」そして「寂しさ」。
それもやはり、自分の中にあるものです。

「理解しなくていい」「放っておいて欲しい」
は他者を拒絶する言葉です。
他者を拒絶しておきながら抱える「孤独」「寂しさ」は自分から望んだものになります。
私は孤独や寂しさを望んで抱えているだろうかと考えます。
けれども、そんなことはないと断じて思います。

本当は理解してもらいたいし、自分の必要範囲内でなら構って欲しいとすら感じています。
私は自分が必要以上に自己開示をする人間であることを認識しています。

ひとつの作品の中で、「自分の秘密を開示して、こちらの秘密を探ってくる」他者への不快感を示しているキャラクターがいました。
そのことには、とても共感しました。
けれども、自分が「自分のこと」を開示する時、「だから貴方のことも教えろ」と、思ったことは少なくとも私はないのです。
私は他人に、そこまでの関心がおそらくない人間だと理解しつつあります。
自分が自分の秘密…というか、自分のことを開示する時は、「ただ自分がこういう人間なんだ」ということを「知っていてもらいたい」のです。
それはもちろん、エゴに過ぎないことも、頭の片隅ではわかっているつもりなことです。
「知っていてもらいたい」と「理解してほしい」は=ではありません。
もう一つの作品の中で、「理解なんかしなくてもいい。知ってくれるだけでいい」と作中で言っていました。私も、そう思います。

「みんなもっと、他人に無関心でいいのにね」

好きな作品のキャラクターの言葉です。

無関心とは関心を持たないことです。
けれども、関心を持たなければ「知る」こともできないんじゃないかと感じます。
新たに知ってもらわなくても、「知っている」人がいれば、そのことに気づければ、繋がることはできるのかもしれません。
孤独は、誰かと繋がることでしか和らぎません。
けれども、誰も「知らない」「わからない」状態、「放っておかれた状態」では繋がりは希薄のままなんだと思うのです。それこそを「マイノリティ」と私たちは表現するのでは。

私たちは干渉を拒みます。理解できないくせに手を差し伸べる人間を拒絶します。

そこには何の矛盾もない。けれども、拒絶した先に待つ孤独には耐えられないのです。ここで、矛盾が発生してしまうから、「理解」できてる「他人」を求める。
けれども、その「理解」は勝手に増えるものではない。
だから、「多様性」という言葉が生まれたのだと感じます。
「多様性」は「理解」を促す言葉ではない。「知る」ための言葉なんじゃないかと。
「知る」ことと「理解」する、がごっちゃになりがちなのだと感じます。

理解はされなくてもいい。歩み寄って来なくていい。ただ「知って欲しい」。
都合がいいなぁと思います。自分勝手だなぁとさえ。
でも、一番望んでいることなんだと思います。
できれば対処してほしい。手伝って欲しい。手助けして欲しい。
心の奥底で、そう感じてないとは決して言えない自分が確かに存在しているから。

よくわからないんですけど美味しいもの食べます!!