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3 of The Empress(正): 豊かさと実り


武人と文人とのヨタバナ(与太話)

「いただきます」で流れにのる(偶然降ってくるものをいただき、楽しむ)

目の前に起こっている現象(=現実)を、「これでいいのかな?」って思ってしまうことがよくあった。そう思うときは大抵、目の前の現象を素直に受け取れない時で。なぜなら、「図々しく思われるんじゃないか?」「いやらしい人と思われるんじゃないか?」「裏があるんじゃないか?」「最低なやつなんじゃないか?」「そんなことしてはいけないんじゃないか?」と勝手にそんな思考が湧き出てくる自分がいることに気づいた。それは、目の前の現象に対して自分が真っ直ぐ向き合えないから、自分で勝手に色をつけて勝手に斜めから見て勝手に受け取らない理由を探していただけなんだって思った。
だけど、「これでいいのかな?」って思ってしまった時は、いちいち自分に「どうしたいの?」と聞くことにした。そして、素直に『受け取りたい!』時は「ありがとう。いただきます!」といただくようになった。逆に、『受け取りたくない!』時は素直に「私はいりません!」と言うようにもなった。NO!と意思表示できるようになったことで、喜んでくれる人へそれが運ばれていくようになるって思った。
要するに、自分が喜ぶことを自分が分かっていれば、それに対してアンテナを立てていられるから、偶然降ってくる物事を受け取れる。だから偶然を楽しめようになったと思う。

成長過程で人は社会から去勢される

成長って、社会へどんどん入っていくことでもある。母体の中から出てきたら、まず家族という社会へようこそ!ですもんね(笑)
赤ちゃんが喜べば周りも喜ぶから、ある程度小さい時までは、自分の喜びは周りの喜びでもあった。だけれど、家族よりも広い社会へ(例えば保育園へ)行くようになると、自分の喜びに周りが付き合ってくれなくなってくる。他にも子供がたくさんいるから、大人はいちいち付き合っていられない(笑)で、大人の事情って奴に沿って大人が子供を扱うようになって、「いい子にしてたらいいよ。」って教えられて、いい子ってやつを覚えていく。いい子って何かって言ったら、大人の事情をわきまえられる子でしょ(笑)大人の事情をわきまえられる子でいられれば、大人は喜ぶ。それを子供の時からやってたらそう癖づく。いつの間にか、大人=他人が喜ぶことを主軸に生きてしまう。で、自分が何に喜ぶかを忘れてしまうのかなと思う(笑)

「家系の連鎖を断ち切る」役割を受けたこと・そのことに気づかせてくれた人

家計の連鎖も同じことで、他人が喜ぶことを主軸に生きてしまうことかなと。家計でいう他人とは、親のことで。
私自身が親を喜ばせることをやっていたのに気づいて、それが理由でカラダの調子が悪くなってる(病気になってる)ってことに気づいた。だから、親を喜ばせることを人生の主軸に生きることを断ち切る役割があるって思ったんだけれども。
自分が実際に親になってみて、「こういう風にした方がいいんじゃない?」って子供に言っていたんだけど、いつも我が子は「僕は僕なの!」って私の教えを突っぱね返してきて(笑)結局子供は、私が教えたことなんて聞かないしやらないんだって…。その代わり、子供自からやったことで何かを勝手に学んでて。だから、親が子供にできることってあんまりないな〜って思った。
つい子供に口を出しちゃうんだけど、「僕は僕なの!」という我が子に対して「ですよね〜。その通りでございます〜。」って降伏するしかなくなってた(笑)

自分への愛は足りている?

私の教えを全て突っぱねる我が子が、とある日「ママは自分に愛が足りないんだよ」と言ってきた時があって(笑)「愛」と言う字が書かれた手紙(?)をくれて、「自分を愛で満たすのよ。」なんて言ってて衝撃を受けた時があったんだけど…。この人、自分の子供ではあるんだけれど、中の人は絶対に仙人だって思った(笑)時々、急に大人びた言葉を喋る時があって、何かが乗り移ったような感じになって…。で、その言葉がすごく響くから今でも覚えてて。本質をついていたんだって思う。「自分を愛で満たす。」って一体何なのかはその時は分からなかったんだけど、「じゃぁ自分を愛で満たすをやってみよう!」って思って、自分なりにやりはじめてみた。「自分を愛で満たす」を意識しはじめると、自分にフォーカスするようになって、やり方をググってみたりして(笑)そしたら、事あるごとに「受容」と言うワードに遭遇するようになったの。「何だよ〜、また受容かよ。受容が今流行ってるのかよ〜」なんて思いながら、「受容」と言うワードの動画を観たり、本を読んだり、何だか分からんワークをやったりしてみたりした。そしたら、「受容って自分を受け容れることかも?」って、何とな〜くそんな気がしてきて、より具体的な「自分を受け容れる」の動画を観たり、本を読んだり、ワークをやってみたりした。すると、自分の中に受け容れられていない自分がたくさんいることが観えてきて、「自分を受け容れる」って「受け入れられていない自分に色目をつけずどうこうせず、只々真っ直ぐ向き合って、只々これでいいのだって受け容れること」な気がしてきて、その行為が「自分を愛で満たす」ってことなのかもって思うようになってきて…。「そりゃ〜自分に愛が足りてない」ってことに気づいて、そんな自分を受け容れられて、只々それをやり続けてみたりしてた。

エネルギー問題、の「エネルギー」とは人間の意識のこと?右肩あがりの「持続不可能」と山あり谷ありの「持続可能」

自分の中に受け容れられていない自分がたくさんいたのって、自分で自分に色目をつけたり、自分で自分をどうこうしようと(=コントロール)していたんだって思う。結局それって、「親が喜ぶ仕事に就く、親が喜ぶ結婚相手と結婚をする。親が喜ぶから子供産む。」全て「親を喜ばせるため」だったんだと思う。一見いい子のように見えるけれど、そこには「自分」が抜けていたんだって思う。自分を蔑ろにして他人を喜ばせることをしていた。だから、自分にエネルギーがなくなっちゃった。自分にエネルギーを取り戻すために、「自分を喜ばせる」というところまで立ち返って、「自分を愛で満たす」ことをする現実が現れたんだと思う。
「自分を愛で満す」をやったお陰で、自分はこのままで大丈夫って思えるようになって。このままの自分であることで「自分を喜ばせる」ことが自然になって。自分の喜びが勝手に他人へ感染していって…。
私も「私は私なの!」でいいんじゃないかって思うようになって(笑)
で、話が大きく飛ぶけれど(笑)、世の中のエネルギー問題って、結局のところ人間の意識の問題なのでは?って思ったの。
エネルギーを与えねばならないって思うから、自分に色目をつけたり、自分をコントロールしたりして自分のエネルギーを使っちゃう。そして、与える相手ばかりを気にして相手ばかりにエネルギーを使っちゃう(自分は蔑ろにしちゃう)から、自分からエネルギーが枯渇していく。
反対に、自分に色目をつけたり、自分をコントロールしたりせず、そのままの自分自身で在れば無理することがないから、自分のエネルギーは使わない。自分に喜びを与えることを気にかけると、自分がどうすれば喜ぶのかが分かり自分が喜ぶことを優先してやるので自然と自分自身にエネルギーが満たされていく。満たしきったエネルギーは自然と溢れるから周囲に流れ出して、勝手に他人に与えてしまうこととなる。
何かを目指す時、人は効率的に働こうとする生き物だと思う。相手の要望に応えるために、自分を不自然にしてまでも答えようとする。だから、与えることを目指そうとすると、不自然のまま直線的にそこへ向かおうとしてしまう。相手に合わせて自分を曲げて、難ある道だとしても真っ直ぐにしか進まないなんて、結局物凄いエネルギーが必要になる。
そんだったら、自然のままの自分で、楽で楽しい道をウロウロしたり休んだりしながら進めば、山あり谷ありの波を描きながらゆる〜りと進んでいけるからエネルギーは持続する。

「う●こは世界」=阿呆を極める

目指す先を明確にして、直線的に進んでいくって、頭で考える(ロジカル思考)ことでできる。けれど、波を描きながら進んでいくって、頭で考えるではなくカラダの声を聞くことでできると思う。楽とか、喜ぶとか、幸せって、カラダが感じた状態のことでしょ。緊張したカラダでは、どう感じているかは分からないから、リラックスしていることが前提で、それが自然のままの自分ってことで、ただ在る状態ってだけ。
自然のままの自分である時って、カラダの調子がいいこと(=元気)であることだから、腸の調子もいい。そしていいう●こが出る!
ロジカルに偏ると、頭ばかり使うから頭に血が登るから頭ばかり熱くなって下半身が冷えてくる。そうすると、腸の調子もイマイチになって便秘がち(または下痢ぎみ)になる。
極論、持続可能な世界っていいう●この世界なのよ(笑)
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん🎶ってあるけど、何これ?って見ているよりも、踊っちゃう方がカラダを使うから、カラダの感覚を使うことになるじゃない?カラダの感覚を使ってカラダの声を聞いて、元気なカラダを維持していけばいい。
『ぽか〜ん』って阿呆面になっているってリラックスしている状態なんだから、「ただ阿呆で在る」ことは「阿呆を極める」ってことでもある。

子育てでも大事なこと

手段や方法は教えることができても、『在る』って自分で気づくかどうかで。だから、人生の道を歩む上で大事なのって、生き方よりも、あり方ってことになるんじゃないかな。ってことはだ、「こういう風にした方がいいんじゃない?」って生き方を教えるよりも、「だよね。」って在り方に気づけたことに共感することを大前提にすれば、親も子も共々自然と共に生きていけるんだろうな。



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