「目の前の相手が望む自分」を演じてしまいます

 質問、とわたしは言う。いつものだね、と同居人は言う。そのことに彼女が鳴れてしまっていることに、わたしは不思議な感慨を覚える。あるいは少しがっかりする。彼女は徐々にここに、この場所、わたしのいる場所に、最適化しつつあるように見える。それはいいことなのだろう。もちろん。

「あなたはなにですか?」

 同居人は首をかしげる。立てた膝の上にうずくまっていた長い髪がさらりと落ちる。同居人はソファにすわって、わたしが買ってきた雑誌の、全部のページを丁寧に読んでいるところだった。また「い」を探しているのかもしれない。

 わたしはといえば春になったので料理ばかりしている。春になった、なったのだと思う、この、いつまでたっても秋の海に戻ってきてしまう場所にも、時々春が上書きされる。そのたびにわたしははしゃいで野菜を買ってくる。

「わたしは、人間です」

「それから?」

「女の子」

「うん」

「あなたと一緒に住んでいる。ねえ、これわたしのことを聞いてるわけじゃないんでしょう」

 同居人は途中から不満そうな声を出した。わたしは笑ってしまう。「ごめんなさい」

 わたしはソファの上の彼女の脇、ソファのまえの床にうずくまる。彼女より視線を下にして、膝の上にたれぱんだを抱える。そうして、もう一回言う。

「あなたはわたしにちかごろ優しい」

「……そうだよ」

 彼女は頷いた。「だって友達になったから、それに」

「それに?」

「このあいだ、勝手にどっかにいかないでってあなたが言った」

「あれはたとえ話だよ」

「たとえ話だけど、でも言ったでしょ」

 同居人はわたしのほうに手を伸ばして、ぽん、と頭をたたいた。撫でるのとは少し違う、でも限りなくよく似たしぐさ。

「あなたはわたしに都合の良いあなたを『演じている』」

「……かも、しれない」

「でも『演じていない』あなたって、いったい何だろう。あなたは『何も』演じていなかったと言える?」

 同居人は肩をすくめる。「わからない」

 同居人がぽん、とわたしの頭の上に手のひらを置く。わたしはそのあたたかさを感じながら同居人を見上げている。「あなたは行き場のない子供を演じる。あなたはミステリアスな同居人を演じる。あなたはやさしさを演じる。あなたはそれをしようとする。そしてそれをする。それは生まれ持ったものではない、だから、それは、ある意味で演じていることだ」

「嘘はついてないよ」

「うん。嘘ではない。だから多分、つらいことが起きるとしたら、嘘をついたときなんだ。……ちょっと違うかな」

 同居人は首をかしげる。わたしは彼女の髪の毛をひとふさつまみあげてみる。同居人はそれを見おろしていて、なにも言わない。わたしたちは仲良くなった。

「嘘はついてもいい。全部本当のことを言う必要はない。わたしがあなたのことをすごく好きだと言ったらあなたが困るとしたら、わたしはあなたに、あなたのことはそんなに好きじゃないというふりをするかもしれない、それは嘘だけど」

 彼女は少し笑った。

「今だって、そこまで好きじゃないというふりをしているよ。嘘をついてる」

「そうだね」

「わたしは嘘をつく。でも、それは、わたし自身に対する嘘ではないんだよ。それは君を傷つけないためについている嘘で。たとえばだけどね。でも、わたしはわたしの心には、嘘をついてはいけない、それをすると、わたしは、損なわれる」

「損なわれる」

「ダメになった果物みたいに」

 彼女は、あいている左手で、ぽたり、となにかを落とすしぐさをした。わたしは、わたしたちは、そこに潰れてしまった果物を幻視した。熟れすぎてダメになった果物。彼女は果物をかわいがる習性があって、ときどきダメにする。

「目の前の人が望む自分を、演じてしまって自分が傷ついている、損なわれている、と思ったときは、それは自分に嘘をついてしまったんだ」

「自分に嘘をつくとどうしてダメになるの」

「自分が望んでいることがわからなくなるから」

 わたしは答える。潰れてしまった架空の果物を見つめながら。彼女の手のひらの熱を感じながら。彼女の髪のつるりとした手触りを確かめながら。本当と架空を確認しながら。

「演じている架空の自分と、ちがう自分がいたとして、その自分でいるほうが、楽であるとする。あるいは演じている架空の自分は、ちがう自分を裏切っているとする。そうしたら、演じている架空の自分は、演じていないときのほかの自分を、常に裏切っている。あなたはわたしを好きな自分を演じているとき、わたしを好きではない自分を裏切っている、たとえばね」

「実際にはその子はいない」

「ありがとう。いないのだとしたら裏切っていない。わたしたちは」

「わたしたちは」

「自分を裏切ると死ぬ生き物です。死については前に話したよね」

「できればみんなで生き延びたい」

「そう」

「嘘をついてもいいから殺さないで」

「そう」

「ねえ、どうして、自分を死ぬとしても、自分を裏切ってしまったりするの」

「愛されたいからだと思うよ」

 あるいは。

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