正しくある必要、ありますか

おはこんばんにちは。皆様如何お過ごしでしょうか。僕は睡眠薬を二種類服用していますが相変わらず12時就寝、3時起床の日々を過ごしています。1日が長い。起きているとはいえフルパワーで動けるわけではなく、日が昇るまではエネルギーが無いので、なにかするでも無くただ布団におり、時間感覚が狂います。1日がまじで長い。5歳児の1日くらい長い。気が狂うよ。狂ってるんだけど。

そんな感じで時間だけはあるため、その時間を自分の中では比較的コストのかからない思考の整理に費やそうかと思い、ゆっくりと石臼を引くようにゴリゴリと思念を削り出した結果、自分の中に「正しく在りたい」という願望が存在することに気が付きました。

正しく在りたいとはなんなのでしょうか。いきなりこいつは何を言い出したんだという文章ですがお付き合いください。正しく在りたいとは一体なんなのでしょうか、いやそもそも正しいとはなんなのでしょうか。
在りたい、これは願望ですね。そのような態度を取ったり、存在としてそうなりたい、一種の変身願望でもあると言えます。自分という存在を何らかのアーキタイプに当てはめたいという願望のことをとても有りていな形にまとめると「在りたい」という単語になるのでしょう。
では「正しく」とはなんでしょうか。正しいという事柄、事象が存在するためには正しくないという事柄、事象が存在しなければなりません。正しいと正しくないは互いに排反であり、正しい、かつ、正しくないという事象は存在しません。ではこれらを分けるものはなんでしょうか。それは規範であります。正しいと正しくないの間には規範が存在し、それによってこの二つは隔てられているのです。
我々という存在が正しく在る、又は、正しくなく在る為には前もって規範というものが我々の生活に存在することが必要なのです。ではこの規範とはなんなのでしょうか。それは倫理であると現時点での私は考えます。それは法律であると答える人もいると思います。しかし法律で正しくないとされるものは社会悪のことを指しており、個人の感覚としての正しさとは乖離していると考えることが出来ます。なので私は法律を指して規範とは考えません。では倫理とはなんなのでしょうか。これは個人の感覚に由来する価値観である、と答えたいところですが、それでは答えになっていません。正しさという絶対的な集合について話しているのに個人の感覚という曖昧で相対的なものを引き合いに出すのは卑怯であるとすら言えます。では果たして倫理とはなんなのでしょうか。その問いについては倫理学にその一端を見ることができます。倫理学には主に「善」とは何かということについて議論をする部分と「正」とは何かについて議論をする部分があります。そして倫理学は大きく分けて規範倫理学、メタ倫理学、記述倫理学の三つの分野が存在します。その中でも規範倫理学に焦点を当てて話を進めていきましょう。
規範倫理学の中には主に三つの立場が存在します。功利主義、義務論、徳倫理学です。功利主義はその関係者の幸福の総量が結果的に増加する行為が正しい行為であると定義し、義務論はその行為が特定の「義務」に適合している場合に正しいとし、徳倫理学は行為自体に焦点を当てるのではなく徳を持つこと、徳を持った人物がする行為自体が善であるとします。このなかだと功利主義が最も自分の考えている内容に近い気がするので深めていきます。
功利主義の特徴をまとめると以下のようになります。

・幸福主義
・帰結主義
・総和主義

幸福主義は功利主義の立場において善いこと、正しいこととは幸福であることを指します。帰結主義は行為の正しさを結果から考えることを指します。総和主義は行為によって関係者の幸福の総和が増加することを善いこと、正しいことを指します。つまりこれらの主張をまとめると功利主義は結果を重んじて経過に重きを置かず最終的に関係者の幸福の総和が増加すればその行為は善い行為であるとみなす、ということがわかるかと思います。
これを読んでそもそも幸福とは何なんやねんと思った方がいるかと思います。功利主義における幸福には二つの種類があります。まず一つ目は善そのもの。これは常に幸福であるとされます。善とは悪でないこととされます。善と悪は対立するものであり、この二つをまたぐものは存在しません。つまり悪でなければそれは善である、という論理が成り立ちます。ではこの二つを隔てる規範はなにか、と気になるかと思います。これは道徳であるとされています。道徳は、倫理観にも似たような概念です。しかし道徳は普遍的なものでも客観的なものでもありません。もし道徳が普遍的で客観的なものであるとするならば世の中はトマス・アクィナスが定義した存在しない世界、すなわちユートピアとなっていることでしょう。少し長ったらしくなってしまいましたが、善とは悪でないものであり、これらを隔てる客観的な定義はまだわかっていないが、個人の感覚としては道徳がそれにあてはまるという事がわかりました。
二つ目は苦痛が快楽を下回っている状態、これもまた幸福であるとされます。苦痛とは現代風に言うとストレスを感じること全般でしょうか。ストレスを感じることは苦痛ですが、ストレスを感じてもそれ以上に快楽を感じる状態になるのであれば結果としてその行為は幸福をもたらすものとされるわけです。
つまり善そのものであり、苦痛が快楽を下回っていればその状態は幸福とされるわけです。この状態を常に維持することで自分は「正しい在り方」に近づくことが出来るのではないかと考えます。

あとは複雑に構成された規範の中の正しいを構成する部分集合の中で自分が許せる限り逸脱しなければ良いのではと考えますがそれはとても難しそうです。なので必ずしも正しくある必要はない気がします。しかし僕の私の信念はそうある方向に強く私を向かわせます。気が狂いますね。大変ですね。辛いです。

そんな感じでした。いつか読んで五秒で挫折した「悪について」(中島義道 著)を読んでみたいなと思います。

ではまた