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ひらがなor漢字。どっちが優しさですか?

※写真=『剛心』(木内昇・著、集英社)第二章より。建築用語に“ルビ”が付いているのは間違いなく親切

 作家・木内昇さんが12月26日の日本経済新聞文化面の「日曜随想」というコーナーに、『とかくにこの世は』というエッセイを書いている。自他ともに認める“ノボリスト”(造語)の私は、手っ取り早く読もうと、日経WEBに登録を済ませた。例によって、“さわり”だけ無料で読めて、全文は有料記事。もちろん、彼女の作品に対してはお金を惜しまないから即決。ただし、お金の発生しない期間ということだから、ここだけ読んで解約することもできるのだが。

 時代小説作家というのが木内さんの大看板だが、エッセイストとしての彼女も凄腕だ。それは既刊『みちくさ道中』を読めば納得してもらえるはず。今作もまた、とても美しい文体で、流れるようなリズムで、ユーモアありズバッと斬るところもあり、実にバラエティに富んでいて、まるでニワトリのように、はたまたヘビーメタル/ハードロックライブにハマりまくった学生時代のように、高速で首を上下しまくった。おかげで、毎日湿布を2枚貼って何とか持ちこたえている首痛が、一向に良くならない。いや、むしろ悪化したくらいだ。でも、こんな痛みは木内さんの文章に触れる幸せを思えば心地好いものだけれども。

 だが、ひとつだけとても気になることがあった。ルビ、いわゆる「漢字にひらがなをふる」箇所が、異様にたくさんあったことだ。私は職業柄、漢字に触れる機会が多いが、漢字検定何級などという資格もなく(受検すらしたことがない)、普段、小説などを読んでいて読めない漢字も多数。決して漢字に明るくはない。が、それでも「え、これにルビふるのー?」というように驚いたこと13度。数えてみたら16箇所にルビがついていた(WEB版だから、漢字の上についているのではなく、カッコ付でひらがなを書いている)のだから、ほぼパーフェクトだ。

 もちろんこれは木内さんが付けたものではなく、日経新聞の校閲部の手によるものだろう。おそらく、全社的に「ルビふりルール」があって、それに則った、至極忠実な仕事ぶりだったのだろう。同じくnoteを書いている木内さん自身が校閲の方々に労いの言葉をかけているのだから。

 しかし、と思うのだ。ルビは読者への丁重なサービス、それはもちろん、ある程度は理解している。だって、われわれも普段、そういう作業をしているのだから。「たかだかボクシング雑誌だろ」とは言わないでほしい。あの名作『どついたるねん』で赤井英和さん演じる主人公の名セリフがあったではないか。「漢字は『ボクシング・マガジン』で覚えたんや!」って。
 で、われわれにも一応、編集部内の統一ルールが大雑把にある。4代前の編集長だった根本晃一さんがリストアップしたものが大体踏襲されている。「『全て』は『すべて』とヒラく」とか、「『思い通り』は『おもいどおり』にヒラく。『○○通り』とか固有名詞は漢字のまま」とか。「ヒラく」というのは「ひらがなにする」ということ。でも、どうしても作者が漢字を使うことにこだわる場合は、「ルビをふる」など。

 ここでもまた、“書き手”の色が出る。私の場合は、漢字に疎いからこそ漢字を使いたがる傾向にあるようだ。が、宮崎正博は最近、「ひらがな使用」がマイブームらしい。「最近、ミヤちゃん、ひらがな使うの多いよなぁ」って気づいている読者がいたら、相当な“宮崎マニア”ですな。で、かなり頻繁に議論(というか口喧嘩)になる。

「ミヤちゃん、ここは漢字にしたほうがいいんじゃない?」
「いやいや、これはひらがなにした方が色っぽいんだよ!」
「いやいやいやいや、それを言うなら漢字の方が艶っぽいですって!」とか。
 読者への親切心のかけらもないところでの争いが、われわれを象徴しているのだが。

 これは超個人的な感覚だが、ひらがなの多い文章を読むと、昔読んだダニエル・キイス著『アルジャーノンに花束を』の日本語訳版を思い出してしまう。あの作品は、主人公の語りがひらがなのみで書かれていて絶妙だったが、われわれが届ける文章は質が異なる。

 もちろん、読み手に、よりわかりやすく伝えることは大事だ。けれども、サービスの方向性は果たして本当に良いのか? というところだ。あまり昔話はしたくないのだが、子どものころは、必ず横に国語辞典やら漢和辞典があった。読み方がわからない漢字があれば、部首から調べて「へ~、なるへそ」なんて呟いたもの。そもそも部首だってよくわからないし、画数とかも何だかわからないから、ひとつの漢字の読みを調べるのに、かなり苦心して、でもその分、わかったときには、読み、部首、画数といっぺんでいくつも覚えることができた。今の若者たちにゃ、到底考えられないだろう。私自身だって、今はそんなめんどくさいことしたくないし。

 でも、現代にはパソコン、スマートフォン、検索という最強の武器が存在する。わからない漢字があったら、コピー&ペーストして検索すれば、瞬時に出てくるじゃあないか。コピペできない加工がされていれば、スマホで撮影して、写真から文字を検索することもできる、らしい(かえって恐ろしい世の中だ)。
 ……という理由で、私は結構な割合で漢字を使うようにしている。そうやって、漢字を覚えてほしいという理由もちょっぴりある。「検索するのすらめんどい」なんて言われてしまったら、もう返す言葉もないが。でもきっと、そう思われるのが嫌だから、他社は一所懸命「ひらいて」いるのだろう。

 その場で止まることなくスッと読ませるのが読者に対するサービスなのか。それとも、ほんのわずかの努力をさせることで、判明したときの小さな喜びを与えるのが優しさなのか。正解はわからない。
 でも、私が選択しているのは後者。そのほうが漢字を覚えるという感覚もあるし。それに、今の調子でどんどんヒラいていったとしたら、いずれ全ての漢字をひらがなにすることになってしまうのではないか……と。

 図らずも、大好きな木内昇さんの今回のエッセイで、そんな危機感すらおぼえてしまった。

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