Day126→エッセイは自慢話なのか。
ごあいさつ。
もうすぐ7月。今年も半分終わりだが、相変わらずマトモにnoteを書く余裕が無い。というのは、盆と正月がいっぺんにやって来たような(※いわゆる比喩表現)状態。
書きたい欲はあるのに、そこまで手が回らない。1本当たり2時間程度掛かるのでしゃーない。具体的にはまだ何も書けない段階なので、これをご覧になっている皆様のご想像にお任せするが、これは試練なのかと思うばかり。
仕事は元からなのだが、知人がPCを入れ替えるから協力してくれだの、副業(文筆業ではない)への依頼が矢鱈めったら多かったり、そしてプライベート案件では千本ノックのように次から次へと初挑戦の連続。
日常茶飯事のことは、ある程度流れに任せてやる余力はあっても、初案件だとそうもいかない。何も無いところから気を遣いーの、二転三転する案件を合わせーの、どう温めていくかを思案するのも、なかなか根気が要る作業。
折角乗りかかった船だから、みすみす見送りにはしたくないし、このチャンスを逃すという手はない。普段の要領の悪さを痛感するのだが、アドバイスはあれど、助け船は出ないから自分で何とかするしかない。
これだけは言わせて頂くと、プロの方の力を借りるのは、少々値が張ったとしても頼るべき存在。安く手軽に済ませようとしないで、もっと早くにお願いすれば良かったと痛感する次第。プロすげぇ。
私のように対人コミュニケーションが苦手(いわゆるコミュ障)となれば、食パン咥えて曲がり角でバッタリ、みたいな、都合の良い展開なんて間違っても起こりやしない。
自分で無理なら、その道のプロにお願いするのが手っ取り早いし、ジェーン・スーさんのおっしゃる通り、カネで解決するに越した事は無い(※スーさんの著書「今夜もカネで解決だ」はマッサージの話)。
もちろん、足元を見るような業者もあるそうなので、信頼の置ける方だとなお良い。モノゴトをより良い条件で進めるには相応の対価が必要なのだ、ということに気づかされる。
近況報告代わりに、交流がめっちゃ減ってる、最近付き合いが悪いんじゃないの?と思った皆様に軽くご報告ということで、ご挨拶に代えさせて頂く次第。決して引退宣言ではないことを付け加える。念のため。
自慢話のつもりはないが。
だいぶ前置きが長くなってしまったが、ここから本題。
2023年4月に、酒井順子さん著「日本エッセイ小史 人はなぜエッセイを書くのか」という本が出たらしい。上述したとおり、本が読めない状態なので論評することは敵わないが、エッセイ好きなので読んでみたいと思っている。
かつて井上ひさしさんが「エッセイとは自慢話のことである」と表現したそうだが、別の視点を提示してくれたり、共感や教訓といったものがあるのならば、自慢話であっても魅力的なエッセイに違いない。
とはいえ、私も“エッセイ”をnoteに投稿しているが、自分では自慢話だと思って書いた例しがない。というより、大凡私の事を誰も羨ましいなどと思わないだろうから、井上さんの言説は当たっていないと思う。
万万が一、羨ましいと思ってくださるとするなら有り難いのだが、逆に何がどう羨ましいのだろうか。自分のことについては、分かっているようで自分で気づかない事って意外と多いじゃないですか。
私がエッセイ擬きを書いているのは、読者の皆さんを羨ましがらせたいとか、自慢したいとかではなく、新しい考え方のご提案、ということに他ならない。
酒井さんによれば、「視線のズームを引いたり近づけたりする調整の上手い人が、面白いエッセイを書く」とのこと。確かに、新しい視点からのモノゴトに気づかされるのは魅力的。
気づきって、大事じゃないですか。ただ流されて何となく受け入れるのと、自分で考えて、これだ!と思って受け容れるのでは、意味合いが大きく違ってくるし、明らかに後者のほうが有意義ではないかと思う。
私もよく取り上げているジェーン・スーさんについても、モヤモヤすることへの言語化が素晴らしいから共感するし、文章に触れる度、新たな視点と考え方の提示に納得させられる。
本当のことを書かなくても誰にも怒られないが、私は言えない事をボカしつつも、noteだから共感されなくても率直でありたいし、新たな発見へのお手伝いが出来ればと感じているところ。
今週のオマケ。
お茶を濁したワケではないけど、偕楽園公園にある蓮池のハスを貼っておきます。紫陽花もいいけど、ハスも見頃だったりする。これも梅雨の楽しみの1つかも。