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そのとき、別れればいい

 潤くん、無理しなくていいよ。
 夜遅くの電話で、香奈さんは喉の奥がきゅっと締められたような声で、そういった。無理? 俺はベッドに寝ながら、その意味を香奈さんに聞いた。うん……、無理にわたしに会わなくても、いいよ。そういった後、香奈さんはふふっと笑った。ごまかすように。
 別に、無理しているんじゃないから。
 そういって、電話を切った。午後10時過ぎ。自転車でいけば、香奈さんのアパートまで20分くらいでたどり着く。そのくらいの距離になりたくて、今のこの部屋を借りた。俺は、スウェットに黒のダウンを羽織り、自転車の鍵を持って、急いで部屋をでた。
 ペダルを思いっきり踏み、河沿いを自転車でかっ飛ばした。午前中まで降っていた雨の匂いと、河と、草の匂いが、顔にまとわりつく。自転車を走らせている間、香奈さんのいくつものシルエットを、頭の中に思い浮かべた。想うだけで、俺は幸せだと感じた。
 ーー潤くん、無理しなくていいよ。
 なぜそんなことをいうのだろう? 香奈さんを、愛するのが難しいわけではない。香奈さんを、手放すことのほうが、困難だというのに。
 アパートの前に着いたら、香奈さんに電話をした。
「……眠ってた? 今、散歩がてらちょっと香奈さんのアパートの近くに来たんだけど」
 えっ、と香奈さんの驚いた声が聞こえる。
「……来ちゃったの?」
 ということは、迷惑だったのだろうか。俺は怯まずに、
「会いたかったから」
 と正直にいった。香奈さんは、黙った。そしてドアを開けてくれた。
「無理してるとか……俺のこと、馬鹿にすんなよ」
「馬鹿にはしていないけど」
 部屋に入るなり、俺は香奈さんにつっかかり、そして香奈さんの唇にキスをした。香奈さんは少し抵抗していたけど、俺が彼女の目をじっと見据えていたら、香奈さんの顔に赤みがさした。
「いつでも会いたいんだよ、俺は」
 香奈さんの手首をぎゅっと掴んだ。細い腕。そこには、シルバーの腕時計がつけてある。俺があげたやつでも、香奈さんが自分で買ったやつでもない。腕時計にふれないよう、反射的に俺は腕を握る手をずらした。 
「でも、もう終わりが見えているじゃない」
 香奈さんはうつむいたまま、そういう。いつだったか、女友だちに理解できないといわれたことが思い起こされた。
 ーー君たちの、その関係って、健全じゃないよ。
 ーー結局、そのひとに振り回されて終わるだけじゃない。
 俺は、別に理解してもらいたいわけじゃなかった。だから、そういわれても、わかってる、とだけいって、後は話を終わらせた。
 それに香奈さんは、振り回しているわけじゃない。俺が、勝手に想っているだけだ。
「俺には終わりなんか見えない」
 真顔でいったら、香奈さんがようやく笑った。
「負けず嫌い」
「ほんとうに、俺を嫌いになったら別れればいい」
 香奈さんは俺の顔を、すっと見据えた。
 そのとき、別れればいい。
 そういって、俺は香奈さんに顔を近づけた。ゆっくりと、ふたりの体温が混じり合い、溶けていく感覚がした。

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