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水中花火

 いつの間にか、私は水のものになってしまった。
 目を開けたら、見渡す世界ぜんぶが、青色に染まっていて、どうやら私はその一部になってしまったようだった。私は水のなかを泳いだ。手や足となる部分を動かすと、簡単に移動できた。ここはどこなのだろうか。川、湖、または海……。ゆるゆると移動を続けて、うろこのような光を浮かべている水面が上のほうに見えた。そこに船の舳先のようなものが見える。それが水面を滑り、またたく間に、水中は暗闇に包まれた。
 水のものになる前の記憶といえば、曖昧だ。曖昧であるが、でも、印象的に残っている断片はある。
 弟と庭先で花火をしていた。あれは冬の日だったか秋の日だったか、その辺は定かではない。けれど、夏場ではなかった。寒かったので祖母が薪に火をくべて、暖をとっていた。そのついで、といった形で弟と私は花火を持ってきて、祖母が暖まっている横で、花火を散らしていた。祖母は、やめなさい、といった。でも、弟と私はやめずに花火を振り回した。そういう記憶が残っている。
 暗闇はまだ続いている。船はどうやら、たいそうな大きさのようだ。水のなかが暗いと、私はなんだか不安でひどく寂しい気持ちになった。そして、私はあれからいくつ年をとったのだろう、弟はどうしているのだろう、と記憶のぼやけた輪郭の線を、必死になぞっていった。まるで不毛だった。
 でも、ひとつ思い出したことがある。それは、病室で横たわっている弟の姿だった。弟の顔は黒かった。地の肌も黒かった記憶はあるが、それよりも、病に侵されてなった色だとわかった。弟の顔の造作は覚えていない。そこだけマジックで塗ったような、黒い顔が私の方を向いていた。
 ーー姉ちゃん、また花火やろうね。
 花火なんて、いつだってできる。私はそういったのではないだろうか。弟の声が、まるで最期のように聞こえたので、私はそれを否定するためにムキになっていったのではないだろうか。
 悔しいことに弟の記憶はそれ以上辿れない。
 船が通過して、水のなかが再び青色の光で満たされた。私は水面にでようとする。だけど、外の光がまぶしすぎてそれができない。私は手や足となる部分を意味もなくぶらぶらと揺らした。ふと、弟の名前を呼びたくなった。呼びたくなっても、名前も思い出せないし声もでない。だから、会いたい、ただそれだけを強く祈った。
 すると、水面にひと影が現れた。
 そのひとはどうやら泳いでいるらしかった。ざぶり、と音がしてひと影が水中まで潜りこんできた。ひと影の手や足や身体の線が、あやふやになっている私の記憶に、はっきりとした輪郭を与えた。
 ーー弟だ。
 私は嬉しくなって、そうなると同時に目から涙がこぼれた。
 弟の顔はやはり黒かった。まだ病気が治っていないのかもしれない。でもこうして存在していて、私に会いにきてくれた。
 弟は私がたゆたっているところまでおりてきて、手となる部分をとって、花火見にいこうよ、といった。水のなかだから声になることはない。でも、頭のなかで弟の声が響いた気がした。私と弟は泳いで、青色がずっと深くなるところまで辿りついた。そこで弟が立ち止まり、ほら、と水面の方を指さすと、そこには赤や緑やオレンジ色をした花火がぱらぱらと降り落ちてきているのだった。
 きれい、と私が心のなかでいったら、うん、と弟の声がやはり頭のなかで響いた。
 弟は腕を伸ばして、それを左右に振って、昔こんな風に花火を振り回していたね、といった。私は、うんうんとうなずきながら、またしても涙がでてきて、今度はどうしてか止まらなかった。
 最後の花火がどん! と大きく鳴った。水のなかがぶるぶる震えて、私と弟は怖くて手をぎゅっと握っていた。
 姉ちゃん、ごめんね。とふいに弟は私にそういった。何が「ごめんね」なのかわからない私は、それでも弟を強く握りしめていたが、弟の身体はやがて透明になって、青くなって、水そのものへと変わっていった。
 私は弟がいた場所に手となる部分を伸ばし、そこを触り、かき回し、そして抱きしめることをしたけども、弟はもうすでに水に変わってしまっていて、そこには、弟のものともわからない、とりとめのない水だけが漂っているだけだった。

                 

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