いつか消滅するとしても EP.1

 欲望など、ほとんど感じていなかった。ただ、優の手のひらが温かそうだったから、僕はその温度を確かめるように、優の肘から下の腕に沿うようにして、手を伸ばしていった。夜を走る最後のバスの中。僕と優の他にいるのは、くたびれて窓に額をつけている見知らぬ大人たちだった。優の手のひらに自分の手のひらを合わせたとき、優の体温とそれに湿り気を感じた。そこで僕は初めて、自分の中に欲望があるのを知った。耳の近くに響く鼓動の波を感じながら、バスはトンネル内に入り、優の閉じた瞼の上を、オレンジ色の光が滑っていく。そして優は瞼の下で瞳を動かした。次に、僕の手を弱く、でも確かに握りしめた。

 30名程度が収まる狭い教室内は、湿気を含んだ材木の匂いとしたたかに窓を打つ雨音の気配に浸されている。ホワイトボードに軽くマジックを叩きつけ、僕はアルファベットを並べる。英語というものは、ただ「並び替え」の問題なんだ、と繰り返し述べる僕は、下手な嘘を繰り広げる詐欺師みたいだと思いながら、彼らに教える。嘘を隠そうと、信じてもらおうとすればするほど、冗漫に語る詐欺師みたいに。
「わからなかったら、後で聞いてください」
 僕の顔を見てうなずいている生徒は数人いるけれど、本当に理解してうなずいているわけではないことを、僕は知っている。僕が受け持つ生徒は、大学受験に失敗して、浪人を決意した子がほとんどで、でもその中でも特に英語は皆目理解していない。底辺のクラスに振り分けられてしまった生徒たちだが、挽回しようとする必死さも感じられない。かといって、講師である僕も彼らを上位のクラスにしてあげようという熱意もない。
 チャイムが鳴る3分前に僕は授業を終わらせる。生徒たちが欠伸をして、ファイルにルーズリーフを閉じる音が聞こえる。板書をまだしている生徒もいるから、チャイムが鳴っても僕は帰らない。窓に目を見やり、水滴が流星のように急速度で落下していくのを眺めていた。そして、自分の手のひらをひらいて見つめる。あのときのバスの静けさと優の手のひらの感触が、また蘇ってくるように思えた。
 時間は戻っていかない。戻っていかないはずなのに、優だけは――過去に返ってしまった。
「あの、長瀬先生。質問があるんですけど……」
 手のひらから目線を上げると、不自然な赤いリップをつけた女子生徒が参考書を胸に抱えて僕の元に来ていた。名前が瞬時に思い出せなかったが、前にも質問に来ていた女子だ。何の質問ですか? と静かに尋ねたら、女子生徒は視線を外して、口元を緩ませた。差し出された参考書は、僕の授業の教材ではない。女子生徒が自主学習に選んだものだった。そこで解けなかった問題を指さし、女子は冠詞の使い方の違いについて説明を求めた。僕は、不特定か特定できるもの、という違いをかみ砕いて説明しながら、この子の意図は違うことに気づいていた。女子は、そうなんだ、へぇ、と相槌はするものの、表情はどこかうわの空で別のことを考えているのが見え透いてしまう。集中していない、と僕は軽く息を漏らした。説明が終わり参考書を返すと、指先が彼女の手にわずかにあたる。それだけで女子生徒の動きが止まり、顔を染め赤い唇をきゅっと噛みしめた。
「ありがとうございます、これ、お礼に……」
 手のひらを上に向けるよう、彼女に手で示され、その通りにすると、僕の手のひらにミルキーの飴が3個降り落ちた。最後に彼女は僕の目を見て、頭を下げた。そこで、彼女の瞼にいつもより濃いアイシャドウが塗られていることに気づいた。
 講師室に戻り、自分のデスクの前でミルキーの包み紙をほどいてひとつ口にした。舌で転がしながら、椅子に座って包み紙をひらいたら、数字が目についた。おそらく、女子生徒の電話番号だった。
 笑って包み紙を折りたたみ、捨てようとしたけど、思い直して財布をとりだし、中にしまいこんだ。女子生徒を遊ぶつもりもないのに、なぜか捨てきれなかった。あえて理由を見繕うとするなら、かわいいな、と思ったからだ。
 学生時代のバイトから続いている塾の講師は、未だに正社員ではない。何度か説得されたけど、情熱がそこまでないから、という理由で断った。かといって、有能な講師でもないから、時給は跳ね上がらない。週に3、4日程度のシフトを入れ、時には別の塾を掛け持ちして生活費を稼いでいる。
 パソコンを開き、事務作業をしていると、女子生徒の名前をようやく思い出した。氷雨瑞希という名前だった。
 デスクの上のスマホが振動する。
 画面を見ると、弘子からのLINEだった。明日の夜、空いている? 弘子からの誘いはいつも用件を言わない。通知を消去し、僕はふたたびパソコンの画面を見て、キーボードを打つ。そしてテキストメモを開き、「氷雨瑞希」という名を入力する。

 僕が帰る頃には、雨がやんでいた。

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