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いつか消滅するとしても EP.3

 子どもの頃から学生時代にかけて、僕は優しくすることと愛することの違いが、よくわかっていなかった。愛もないのに、優しくすることができたし、そうすることで勘違いをする女の子たちがいた。大学のサークルで知り合った弘子もそのひとり。ほんとうは気が強いくせに、人見知りしがちな弘子に、僕はいつもさりげなく話題をふった。

 ある日、サークル内で本の感想を共有しているとき、弘子の「この小説には主張がない」という控え目に言うわりに、厳しい発言内容に白羽の矢が立った。その作家をひいきにしていたサークルの女子が、弘子に対し嫌悪を募らせ、「主張がないって論理的に説明して」と詰め寄った。でも、弘子は言えなかった。言えない弘子に、女子が次々と質問を投げかけた。ここにはっきりと、ジェンダーに対する作者の主張が書かれているのに? そもそも主張のある小説って、あなたはどういうのを想像しているの? あなたの手元にある小説にはふせんもないけど、何回読み返したの? ――弘子は涙ぐみ、鞄の中に本をねじこんで、教室から立ち去った。それを、僕は追いかけた。僕以外には誰も追いかけなかった。
 階段を降りる前の弘子を僕は呼びとめた。弘子は素直に立ち止まり、肩で息をした。ゆっくり僕に振り返る弘子を見て、悲し気な目元が「あなたに助けてもらいたかった」と語っているような気がした。

 ――なんでそんなに優しくするの?


 飲み会の終わり、バス停まで弘子を送ったあと、弘子は僕の顔を見ずに、薄墨を流したような夜空を仰ぎながら聞いた。僕は少し考えて、性格かもしれない、と言った。それか、幼少期の体験から、人に優しくなるのかもしれない、と。
「幼少期の体験?」
「そう。いじめられっこだったから、俺。いじめられると、卑屈な人間になるか、嫌われないために優しい人間になるか、どっちかになるしかない」
 弘子は目を伏せ、ふうん、と言った。バス停にある灯りが、夏風になびいた弘子の茶色い髪を、真上から透き通すように照らした。ついさっきリップを塗ったあとの、弘子の潤んだ唇に髪の細い束が、張りつく。僕は背中を曲げて、その弘子の髪を指で払おうとした。
「かわいそうなほど、いとしくなる」
 弘子はそう言って、僕の唇にキスをした。

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