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【短編小説】憧れの人

 恋人がいないくらいどうってことはないのにな。優斗はそう思いながら、傍らで寝ている亜紀の髪の毛を指先で梳いた。嫌というよりもめんどくさい、という理由で一度も染めたことのない亜紀の髪は細く柔らかで、指と指の間を滑るように抜けていく。何度も飽きずそうしていると、亜紀が目覚めて、猫のように目を細めた。起こしてごめん。手を離すと、亜紀が甘えるように優斗の胸に顔を埋める。優くん、いい匂いがする。胸のなかで亜紀が笑うから優斗はくすぐったく感じる。やめろよ、と優しくいさめると、亜紀は優斗の胸から顔を上げた。亜紀の顔は好きだが、岩井ほどではない。優斗は冷静にそう判断し、亜紀にキスをした。
 亜紀に出会うよりも早く、優斗は岩井に出会った。大学の寮の駐輪場で自転車を探していると、岩井がやってきて、自分の自転車を探していると唐突に話しかけてきた。服装は高校のジャージのくせして、岩井は化粧をしたみたいに白い肌と赤い唇をして、髪はうなじを隠すくらい伸びていた。優斗はその姿にふいをつかれた。俺、と言われるまで、岩井のことを女だと思っていた。
 俺、女の子のことが好きなんだ。
 なんで髪を伸ばしているんだ? と聞いたとき、岩井はそう答えた。男ならたいがい女の子のこと好きだよ、と笑ったら、そうじゃなくて、と遮られた。女の子を異性として、恋愛対象として好きというよりも、憧れてるんだ。服とかメイクとか、かわいいじゃん。別に俺の心の性別が女だとか複雑なことじゃなくて。憧れの人の真似をしているだけ。
 そのときは、優斗は理解していなかった。ただ、変わってるな、と返しただけだった。
 岩井は文学部を専攻し、学部内外でも有名だった。ときどき、ロングスカートを履いて、教授の講義を受けていた。学生はもちろん、教授さえも岩井の服装を咎めることもなかった。岩井のスカート姿は他の女子よりもさまになっていた。誰が咎める権利がある? 講義を受けるときは、必ず岩井の隣には女子が何人かいた。優斗の友人の岡本は、その子たちを「天使みたいにかわいい」と評していたが、優斗はそれを認めなかった。岩井より劣る。内心、そう思っていた。
 
 ***
 
 またいつでも来てね。アパートの前で優斗を見送ると、亜紀は幼い顔を広げるように笑い、手を振った。うん、また来るよ。優斗が背を向けると、すがりつくように亜紀に背中を抱きしめられる。優斗が戸惑って亜紀の名前を呼ぶと、亜紀は上目遣いに優斗を見て、浮気したら殺すからね、と忠告した。いつもの亜紀の冗談だ。はいはい、殺されるようなことはしないから、と優斗は亜紀の頭を子犬にやるように撫でた。それで、優斗は亜紀から解放された。そんなに執着もないくせに、毎回毎回おおげさな女だ、優斗は心の中で呆れていた。それでも亜紀の笑顔は悪くない。髪の匂いも、愛嬌も。
 帰りのバスを待っている間、iPhoneを触ると岩井がSNSを更新していた。新しい髪色にしたらしい。確か昨日飲んだチャイがこんな色していたな、と優斗は思った。フィルターをかけた岩井の顔は、人形のようだった。黒い瞳と、自然な太さの眉毛が優斗は気に入っている。どちらも自前だと言っていた。カラーコンタクトじゃないの? と聞くと、岩井は笑って「天然だよ」と返した。へぇ、恵まれているな。優斗が心から言うと、岩井は「そうだねぇ」と優斗を見つめた。試されている、と感じた優斗はあえて逸らさなかった。
 岩井と寝たことがある。性行為はもちろん、しなかった。性的趣向が違うのに優斗にそれができるわけがない。
 岩井がひとり暮らしを始め出したとき、優斗は呼ばれた。「来る?」と誘うような視線で言われ、優斗は息が詰まった。その反応に岩井は笑い、「変なこと想像すんなよ」と優斗をからかった。でもそのとき誘ったのは優斗だけだった。
 岩井のひとり暮らし先は、大学の寮の近くにあった。「だからいつでも遊びにおいでよ」と、岩井は優斗を部屋に入れながら、誘った。あぁ、またいつかな、と優斗は言ったが、言うだけに留めた。岩井の部屋は、どこか女の匂いがして、それは岩井のものではなかった。あとから、岩井に彼女がいる、ということを優斗は知る。
 ベッドからカーテンからラグから、すべてブルーで統一されていた。意外だな、ピンクにしているのかと思った。優斗は正直に言うと、岩井は「ピンクもかわいいけどねー。せめて部屋くらいは落ち着きたいじゃん」と、冷蔵庫からワインを取り出して、優斗にボトルを見せた。「優斗くんって飲めるんだっけ?」。優斗は頷いて、自分の手のひらを見た。
「わりい、何も手みやげ持ってきてないけど……」
「はは。大丈夫。俺が勝手に呼んだんだし。それに食べ物ならうちにあるよ」
 優斗はベッドに座り、岩井はラグの上でワインを飲んだ。テーブルの上には、ピザが広げてある。
「彼女がね、昨日来たんだ。悪いけど、これはその残り」
 岩井は片目をつむって、優斗にそう話した。ふいに出てきた「彼女」という言葉に優斗は静かに驚き、そしてなぜか安心した。
「彼女? どういうひと?」
「うーん、そうだねぇ。風みたいなひとだね。掴んだと思ったらすぐ離れていく。お喋りが好きだけど、ひとの話を聞くのも好きで。でもひとりの時間がないと生きていけない、みたいな」
 ワインを注がれながら、彼女はいるのか? と岩井に聞かれる。優斗は亜紀を思い出し、どう説明したらいいのかしばらく考えていた。そして、
「バイト先の同期。女子大に通っている。英文科だけど、俺よりTOEICの点数が低い。そしてたまに漢字を間違える」
 項目を並べるように話した。岩井は笑って、「頭よくない子なの?」と返した。悪くはないけど、よくもないな。と、優斗は苦笑いをした。
「あと、顔がいい。いつも笑ってるから話すのが楽。まあ、そんなところかな」
 だけど、俺だけとつき合っているわけじゃない。そう付け加えようか、一瞬優斗は迷う。岩井の横顔を見て、そこまで話すほど親密な仲でもないか、と留める。
「――岩井の彼女は、同い年なの?」
 そこからどう広げようか考えながら、とりあえず当たり障りのない質問をする。
「ううん。ふたつ年上。もう働いているよ。外資系企業で働いている。一度、会社のエントランスまで会いに行ったこともあった。けど、こういうのやめてくれって断られたけどね」
 瞼が重いのか、岩井はゆっくり瞬きをする。外資ってすげぇな。本当にすごいのかわからず、優斗は反射的に言う。岩井はうれしそうな顔を一瞬した。「賢いひとなんだ。尊敬する。彼女と話していて飽きることないよ」そう語る岩井の表情は、まさに誰かに惚れている顔をしていた。優斗は安心して、でもそのなかにわずかな嫉妬を認める。
 ピザ、冷めてるな。優斗がピザを咥えながら言うと、岩井が「レンジで温めてくるよ」と、席を立った。スウェット姿の岩井を久しぶりに見るな、と優斗は岩井の後ろ姿を観察する。彼女の前で岩井はどちらの格好をするのだろう。いつもと同じスカート姿? それともラフな男の格好? 岩井が電子レンジの下にある冷蔵庫から、さらに食べ物を持ってくる。そういえば、これもあった。彼女からもらったんだ。そう言って取り出してきたのは、シャインマスカットだった。
「彼女の前では、化粧とかすんの?」
 シャインマスカットを頬張る岩井の唇に、色がついているのを優斗は見てとる。
「化粧? したりしなかったりするよ。別に彼女は俺がメイクするのとか嫌がらないし。あー、でも夏の日、スカートにサンダルを履いて遊んだとき、ふたりしてナンパされてさ。そのときは彼女、俺のほうを向いて顔をしかめていた」
「やめろって?」
「それは言われなかったけど。彼女は怒っていた。きっと君目当てに声かけたんだって。笑っちゃうよ。その男の視線が俺にしか向いてなかったから、嫉妬されてさ。パフェを食べたら機嫌直ったけど」
 めんどくさいな。優斗は亜紀を思い出しながら口にしていた。「女ってやつは」という口癖、やめたほうがいいよ。いつだったか亜紀に言われたことも。オジサンが言う言葉だよ、と。
「いや、かわいいよ。こんなことで怒るんだって、面白い」
 岩井は目を細めて、そう言う。微笑んでいながら、睡魔が襲ってきたようだった。お前から勧めたくせに、本当は酒に弱いんだな。呆れた優斗の肩に岩井の頭が乗る。されるがままにして、優斗は酒を飲みながら、自分の情動を観察していた。亜紀にされるのと、岩井にされるのと、どちらがいい? ――頭に浮かんだ問いがバカげている、と思った。優斗はグラスを傾け、水を飲むようにワインを喉に流した。やがて、岩井はラグの上で、優斗はベッドの上で一緒に眠った。酔いが回った頭で優斗は岩井に、一枚しかない毛布をかけてやった。優斗は自分のジャケットを被って眠りについた。

 ***

 決心して優斗は亜紀に電話をかけた。バイトから帰った日の夜、亜紀が電話に出ると、背後に電車の走る音がした。あのひとのもとへ、行くのか? 嫉妬を感じていても、いつも言葉に出せなかった。亜紀が優斗の名前を、まるで子どもを扱うような口調で呼び、優斗は心を固めた。俺、もう亜紀とはつき合えない。間違っているよ、こういうの。亜紀のなかで間違っていなくとも、俺にはやはり続けられない。この関係から降りたい。
 優斗は亜紀に粘られると思っていた。その覚悟のうえ、話した。でも亜紀は優斗の想定を裏切る。わかった、ごめんね。今までつき合わせて。――数秒の沈黙のあと、亜紀が息を吸い込む音が聞こえた。優斗は亜紀が何かを言うのだろう、と思っていた。期待していた。でも次に亜紀が告げたことは、「じゃあね」という一言だった。電話が切れる音がし、優斗はiPhoneを耳から離して、しばらくその画面を見つめていた。あのとき岩井と秤にかけ、亜紀の存在は優斗にとって、大切なものではなかった。だから別れる決心がついた。でも、突然の別れに亜紀が何も動揺しなかったこと、惨めにすがりつかなかったこと、別れを惜しむ言葉や、感謝する言葉などなかったこと――これらの事実が亜紀にとって、優斗の存在が何だったのかを思い知らされることとなった。優斗は画面から目を離し、iPhoneを机の上に置くと、ベッドの上に座った。半分開けたカーテンから見えるベランダ窓には、夜の色が以前よりも濃く見える。優斗は身体を倒し、目をつむった。岩井と岩井の彼女の姿が見えるような気がした。

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