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いつか消滅するとしても EP.4

.「もうそろそろ、弘子の誕生日だよな」
 定食屋に入り、おしぼりで小さな手を湿らしながら、優が先に言った。僕は愛想の悪い店員にメニューを伝えると、「そうだっけ」ととぼけながら、弘子から来たLINEの返事をしていなかったことを思い出した。
「去年どうしたっけ」
「確か、俊介と俺の部屋に弘子を招いて一緒にピザを食ったよ」
「じゃあ、今年も」
「今年もピザじゃ、手抜きがばれる」
「それじゃあ、ピザに加えて寿司にしようか」 
「何かプレゼントあげないのか? お前の誕生日に弘子は、パーカーの万年筆あげたんじゃないの?」
 僕が軽く優をにらむと、「そうだな、押しつけられたんだよな」と言い直した。僕は5月生まれで、三人の中でいちばん早く年を重ねる。誕生日を祝い合うようになったのは、弘子が僕の誕生日を祝ったことがきっかけだった。
 大学二年の頃――優と弘子と僕で、一緒につるむようになったとき。三人でキャンパス近くの、準喫茶に寄って軽食をとりながら、煮詰め過ぎて渋くなっているコーヒーを飲んでいた。手持ちの煙草が切れて優から煙草をもらい、口に咥えて火を灯すと、弘子が何かを言いかけた。
「なに?」
 店内のノイズに、弘子の言葉は消された。弘子は言葉にする代わりに、自分の鞄からブルーのリボンで巻かれた四角い包みをとりだした。それを見た優が、指をぱちん、と鳴らし。
「そっか。明日が誕生日だったよな」
 と、僕に向かって目を見ひらかせて言った。
 その瞬間、どろり、とした熱の塊が、僕の胸の中央を通った。
 弘子は笑いもせず、包みを僕に向かって差しだし、まだ皿が広がっているテーブルの上に置いた。お誕生日、おめでとう。
 弘子の黒目がちの瞳は、僕の視線から逸れなかった。
 どうしてふたりだけのときに、渡さなかったのか。あえて、優が同席している場所で、プレゼントを差し出したのか――考えなくとも、弘子の意志的な眼差しでわかった。
「――俊介、受けとれよ」 
 隣に座っている優から、肘で突かれ、僕は弘子からのプレゼントを受け取った。ここであけたほうがいい? と僕はなぜか優に尋ね、優は弘子に、あけてもいいよな? と許可をとった。弘子はそこでようやく、口元に笑みを浮かべ、「気に入ってくれるといいんだけど」と身を少し乗り出した。
 ふたりに見られながら、僕は包み紙を不器用にひらき、四角い箱をあけて、そこにネイビーのブックカバーと、一冊の本が入れられているのを見た。本はアルベール・カミュの「異邦人」だった。
「この前、わたしが読んでいた本。長瀬くんってどこかムルソーに似ている」
 まるでそこに書かれている文字を読み上げるような抑揚のない声で、弘子はそう言った。そういえば、と僕は思い出した。弘子と一緒の講義で隣に並んで座ったとき、弘子は講義を聴かず一心に本を読みふけっていた。
 何読んでんの?
 と、少しからかい気味に弘子の本の見開きの頭に指をかけて、少し倒した。弘子は唇をかすかに緩めただけで、僕の指をふりはらってまた本に目を落とした。そんなにおもしろい本なら、あとで教えて。冗談でそう頼むと、弘子は「あとでね」と言ったきり、僕を無視していた。その日、弘子は僕に教えなかった。
「ムルソーって、太陽の光が眩しいからって理由で人を殺すんだっけ」
 きょう、ママンが死んだ。――書き出し文を目で追っている僕に、優の声はどこか遠くのほうで聞こえたように感じた。
「長瀬くんは人を殺しはしないけど――、ちょっとドライなところが、似ていると思った」
 ドライ? 
 僕と優は口を揃えて言い、顔を合わせた。
 やがて、優は僕の顔から視線を下ろして、何か頭のなかで記憶をつなぎあわせているみたいに、考えている目を見せた。
「――確かに、そういうところはあるかもな」
 弘子は満足そうに目を細めて、冷め切った残りのコーヒーを飲み干した。

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