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家族写真

 歯を磨いていると、リビングからお母さんのせわしない声が響いてきた。ゆうこ、まだ磨いているのー? まったく、こんな日に限って時間かけるんだから。そういうお母さんは私がこんなにも憂鬱になっていることをしらない。
「いま、ゆすぐから」
 つい尖った声がでる。口をゆすいでも、舌にはキシリトールの味が残る。こんな状態で食べ物を前にすると、いつも食欲が減退する。だから、コンテストに落ち、さらに決定的な失恋してから、私は食事の前にいつも歯を磨くことにしている。お爺ちゃんがしったらきっと怒るだろう。そんなことで食の楽しみを奪うんじゃないって、きっと。
 お爺ちゃんは一昨年の冬、亡くなった。享年七十五歳。
 玄関でブーツに片足を入れていると、弟が「姉貴、どけよ」と肩をぶつけてきた。私は拳をあげて、殴る仕草をする。おおこわ、ごりら。弟は私の顔面をまっすぐ見て、まるでそれが正当な科白であるかのようにするりと言う。そういうことに、私はいちいち傷つき顔を俯ける。
「ゆうこ! そんなコンビニに行くような格好をして。もっときれいな服を着なさいよ」
 背後にいるお母さんの言葉を私は無視する。
「お父さんだって、スーツ着ているのよ。あら、あんた! それ夏の背広じゃない!」
 別にいいじゃないか、というお父さんの暢気な声が響き、まったく能なしなんだから、というお母さんとのいつもの応酬が始まる。弟は新品のコンバースの靴を履いて、玄関の扉を開ける。ふいに、冬の匂いが家の中に入ってくる。
 今日は、家族写真を撮る日だ。
 家族写真は私が生まれた時、お爺ちゃんが「加藤家の歴史」を残すために、思い立った行事だ。お爺ちゃんは、加藤家の主だった。
 目立ちたがり屋で、情熱的で、加えて大食漢でーーとにかく豪快なひとだった。亡くなる直前まで元気で仕事をしていたけど、結局大食いがたたって、この世を去ってしまった。
 私に歌手になることを勧めたのもお爺ちゃんだった。
 私は子供の頃から歌が好きで、よくお爺ちゃんの仕事仲間の飲み会に呼ばれ、皆の前で歌ったりしていた。それが割と評判もよく、私もなんだかその気になっていた。
 それで中学の頃、名の通っているコンテストに応募し、面接を受けた。でも、それは私にとって場違いなところだった。柳のような身体つきをした美少女たちに混じっている私は、あきらかに浮いていた。ふっくらとした顔に二重顎、ゆったりとしたワンピースでも隠せないお腹……。面接官たちは、私の歌を誉めてくれたけど「歌声はいいんだけどね……」と言ったきり言葉を次ぐことはなかった。 
 当然、私はそのコンテストに落ちてしまった。
 お爺ちゃんは落ち込んでいる私を街ビルにある中村屋に連れていって、野菜カレーを一緒に食べた。
「ゆうこは、こんなにかわいいのにね」
 お爺ちゃんは泣きながら食べている私に、真実味のある響きでそう言った。だから、私はますます泣けてきて、お爺ちゃんに申し訳なく思った。
 そして私はお爺ちゃんの言葉を信じた。
 お爺ちゃんが亡くなる直前、私は高校生になって初めて恋を経験した。ふくよかな私が抱きついたら壊れてしまいそうなほど、華奢で、整った顔をしていて、でもプリントを渡すときには、「はい」とか「これ」とか一言添えてくれる誠実さがあった。
 友達に話したら、告りなよー、と私の背を押してくれたが、私は話したこともなかったので、告白せずにそのままずるずると日が経っていった。 
 そして、お爺ちゃんが亡くなったあの冬。
 私は悲しみで胸が塞がれ、しばらく授業をまともに受けられず、途中で抜けて保健室で漫画を眺めたりしていた。そんな時、私が好きになった本橋君が貧血で保健室に現れた。目と目が合って、本橋君は私に声をかけた。「加藤、大丈夫?」当然、私は好意があるのだと勘違いをした。
 ーーゆうこは、こんなにかわいいのにね。
 お爺ちゃんの声がふと蘇り、それが私を動かし、気がついたら、何の脈絡もなく告白していた。本橋君はたじろぎ「ごめん」と言い、立ち去っていった。その後、本橋君は一切目を合わせてくれなかった。ぶすが、でぶが、という誰かの言葉が耳につくようになった。

「ーーはい、お姉ちゃん顔をあげてねー」
 カメラがこちらを向いている。顔なんかあげるもんか、と私は思った。でも、その瞬間。
 ーーゆうこ、顔をあげてごらん。
 お爺ちゃんの声がどこからか聞こえてきて、反射的に顔をあげてしまった。フラッシュがたかれ、シャッターが切った音がした。まさかーー。
 後日、写真屋さんに家族揃っていくと、「いやね、加藤さんが出てきちゃったみたいで」とできあがった写真をもらった。そこには私の肩に片手を置いて、片手はピースしたお爺ちゃんが映っていた。
「あら」
「おや」
「おお」
 とそれぞれ声を発し、みんな顔を見合わせるとたまらずぶっと吹き出した。

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