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鮎の骨

 女友達と行くショッピングモールには疑ってかかるのに、意中の同性と行く一泊二日の温泉宿には警戒しないのが俺には不思議でならなかった。


「これ、ほんとに鮎か? こんな小さかったっけ?」
 皿に乗っている鮎の塩焼きを、俺がいぶかしげに箸でひっくり返すと、田原は「鮎ですよ」といって、黙々と骨をとる作業に取り組んでいた。指で頭を押さえながら、きれいに骨を取り除く。じっとその作業を眺めていたら、田原が俺を窺うようにみて、「骨、とりましょうか?」と手を差し伸べた。
 うん、と思わず甘ったれた声がでる。
 妻の陽子が疑わなくてよかったと思う。まあ、自分の旦那が男を好きになるなんて疑うこともないだろうけど。

 田原は俺の同僚で、年は三つ下だ。田原が入社した当初、俺は田原を新しく赴任してきた課長か次長だと思って、腰を低くして挨拶をした。ところが、課長か次長らしき人物はおどおどした態度で、深々とおじぎする俺に対して「やめてください」という。一瞬なんのことかわからなかったが、やがて先輩が通りかかって誤解をしている俺に、「おっさんにみえるけど、新人だよ」と言った。
 実際、田原は老けていた。いや、今でもその老け具合は健在だ。二十代前半だというのに、中年太りと思わせる肉付きに、眼鏡にオールバック。誰がこいつを好きになるのだろうか、と思ったが、飲みの席で経験を聞いたところ、学生時代に同棲していた相手がいた、と話した。へー、とその時俺は無感動の相づちを打っただけだったが、その帰り道で、相手は男だったんです、と告白された。
 俺、その、いわゆる同性愛者なんです、と。

「最初に尻尾を切り取って、次は箸で身を押さえてほぐすんです」
 そういって箸で鮎の身全体をぎゅっぎゅっと押さえつけた後、頭の後ろの部分を剥がした。「これは皮です」。田原に顔を近づけて、鮎を見ていたら、甘い香りがした。こいつ、香水をつけてる。
「後は頭を押さえて……」そして骨を抜いた。
「どこでこんなことを覚えた?」
 きれいに骨を取り除かれた鮎の身を箸でつつきながら聞くと、無表情に「動画です」と答える。なるほど、動画ね。何か日本料理店でバイトしていたとか、そういう経歴を聞きたかったわけでもないのに、肩すかしを食らったような気になる。
 依然無表情の田原は俯きながら、
「今日のために検索してきたんです」
 と補足して俺の顔を緩ませた。
 今まで俺は異性を好きになるのが本当の自分なのか、それとも別の趣向もあるのか、そんな自問などしたことがなかった。だから、同性愛者と告白された時、田原に「それってどんな感じ?」と、かける言葉がみつからなかったので思わず聞いてしまった。
 えっと……誰かを好きになる気持ちはみんなと同じなはずです。でもみんなと同じなのに、違うことが少しはがゆいです。と、田原は言った。
 ふうん、と相づちをして俺は田原と別れた。家につくと陽子がベッドで寝ていていびきをかいていた。起こすと叱られるから、ソファで横になった。田原の言葉を思いだし、田原の老け顔を思い描いた。
 それからずっと、田原のことを考えるようになった。

「布団、離しましょう」
 田原は気を使って、自分の布団を引きずり端の方に寄せる。旅行に誘ったのは俺なのに。別にいいじゃないか、と気安く言ったら、田原は顔をぶるぶるっと振って、だめです、と言い張った。
 離された布団で横になりながら、意識してか意地になってか背を向けている田原にかける言葉を探した。
 鮎、と思いついたように俺は言った。
「田原と一緒じゃなきゃ、俺、鮎をまともに食えなかったかも」
 田原の肩がふるえた。笑っているのかもしれない。
「お前じゃないと、だめみたいだ」
 まるで告白のように響いたその言葉に、田原は反応しなかった。俺は、そっと掛布団から手を伸ばした。そして近いようで遠い、田原の背を撫でるみたいに、手を宙に泳がせた。

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