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その手を離さないで【後編】

 雨は明け方まで続いていた。
 その間、下着姿のわたしの背中に、裕樹くんの裸の身体が寄り添っている状態で寝ていた。裕樹くんは、ときどき無意識にわたしの身体にさわるので、そのせいで何度か起こされた。でも、隣で寝ている裕樹くんの顔を見ると、まだあどけないのでいらいらすることさえできない。
 5つ年下、と聞いたときは驚いた。裕樹くんに貫禄がある、ということじゃなく、別れたときのあの子と同い年なのか、ということに。
 裕樹くんの顔と向き合って、じろじろと眺めた。そこに、あの子と重ねられるところはあるか、とひとつひとつ検分するように。そして同時に、そんなことをする自分をどうかしているとも思った。
 

 玄関を開けたときに、裕樹くんじゃなくてあの子のことを鮮烈に思い出した。まだふたりとも20歳を過ぎて間もない学生の頃、真夏の驟雨に襲われて、駆け寄ったお店で雨宿りをしていたとき。あの子は、白いブラウスを着ていたわたしの身体に背を背け、サイアクだよな、と笑った。サイアク、という言葉は降り止まない雨のことじゃなくて、あの子自身を指していることに後で気づき、わたしの顔は赤くなった。それからわたしは、自分のカバンで胸元を隠し、所在なく自分の濡れた髪やシャツを手でさわる、あの子の横顔をときおり見つめた。雨に濡れたあの子は、少女のような顔をしていて、きれいだと感じた。

 今、隣で寝ている裕樹くんに、それは重ねられない。
「ーー寝れないの?」
 裕樹くんの顔をじっと眺めていたら、瞼を閉じたままで彼の唇が開き、どきりとした。起きているの? と聞いたら、裕樹くんが、大きな目を開き、そして細めて微笑んだ。
「起きるよそりゃ。なっちゃんの視線、いつも強すぎるから」
 わたしは両目を手で覆いながら、「ごめんなさい。寝て」と言うと、身体をもっと引き寄せられてしまう。
「もう、これで寝れなくなった。どうする?」
 裕樹くんの身体にまとうお酒と香水の匂いを強く感じて、戸惑った。わたしは何も言えず、裕樹くんの鎖骨のあたりに顔を埋め、身体に巡る熱が収まるのを待った。わたしの右の脇腹に裕樹くんの長い指がふれ、探るように上までそれが這っていく。いつも器用な裕樹くんの指の動きを感じるたびに、また思う。「慣れている」と。

 途中で指の動きが止まり、裕樹くんが身体を離し、わたしの顔を見つめた。
「ーーいいや。やめとく」
 何かを読みとられた気がして、わたしは不安になった。やめないで、と言うのは何か間違っているし、黙ったままでいるのも不安が増すだけ。なんで? と言って、裕樹くんの目元が一瞬不機嫌そうな色になった気がして、怖くなった。そして、ごめんね、と意味もなく謝ってしまう。
「なっちゃんって謝ってばっかりだね。そんなに俺のことが怖い?」
 そうじゃなくて、と言って、言葉が続かない。裕樹くんの言う通りだった。わたしは、裕樹くんがときどき怖い。
 裕樹くんは、わたしの瞳を気怠そうにじっと見つめる。
「なっちゃんを抱いているとき、なっちゃんは俺のこと考えてない感じがいつもする」
 無表情に言ったのち、裕樹くんはにっこりと笑って、わたしの頭をわさわさと撫でた。わたしは心臓がどくどく鳴って、裕樹くんの顔を見られなかった。そんなことを言うから、わたしは裕樹くんが怖いのだ。

 それから裕樹くんとわたしは黙ったまま、抱き合っていた。ときおり裕樹くんの腕から逃れようとすると、それを許さないかのように、また彼に抱き寄せられた。抱き寄せているときも、裕樹くんは何も言葉を発しなかった。
 裕樹くんには、他にも仲良くしている女の子がいる。
 それをわたしが知っていることを、裕樹くんも承知している。でも裕樹くんは、ときどきわたしを不自由にさせる。こんなふうに、彼の腕から逃れることを防いだり、あの子を考えてうわの空でいるわたしを遠回しに指摘したり……わたしたちの関係には、名前なんてないのに。あるいは裕樹くんはそういうことを、楽しんでやっているのかもしれない。そこに愛はなくとも。
 
 カーテンの裏が光で満ちて朝を迎える。眠っている裕樹くんを軽く起こし、ベッドから降りたわたしは、彼のためにほうれん草とチーズのオムレツ、オニオンスープを作ってあげる。
 寝癖頭でぼんやりしながら、スープを啜る裕樹くんが、わたしの瞳をときおり、じっと眺めた。それが気になり、「何? 変な顔でもしてる?」と笑いながら聞くと、裕樹くんは「なっちゃんの心にいる男って誰?」と言い、わたしは笑った顔を元に戻した。
「それ、知って楽しいの?」
 オムレツをつつきながら、少し声が震えていたことに裕樹くんが気がつかなければいい、と願った。
「過去を探るなんてタブーだけど。俺は、知りたい。知っても傷ついたり拗ねたりしないから、言っても平気だよ」 
 意図がわからない、軽い笑い方を裕樹くんはする。たぶん、裕樹くんに言っても、彼は傷つかない。それほどまでに、彼はわたしのことを愛していないから。
「ーー学生時代につき合った子がいて。すごく傷つけてしまって、だからか忘れられない」
 言葉にしたら、「すごく傷つけた」ことが、とても簡単に思えてしまった。後から遅れて、あの子が、別れ際にわたしの腕を強く握った感覚と、あの子の傷ついた顔を思い出した。でも、そんなに鮮明には思い出せなかった。
「へぇ。なっちゃんから振ったの?」
 今度はわたしから、裕樹くんを咎めるようにじっと見た。裕樹くんは、見つめられても逸らさない。彼はわたしより、強いから。
「ーー振った。その子をわたしの友だちが好きだったから」
 言ったあとで、友だちがあの子を好きだったのは、わたしよりもずっと前のことだった、わたしはそれを知ってあの子とつき合った、ということを言おうか迷った。
「恋愛よりも友情を優先か。なっちゃんらしいね」
 胸の奥が疼いた。なっちゃんらしい。わたしとあの子がつき合っていると話したときに、友だちにも同じことを言われた。わたしより、恋愛を優先するなんて、なっちゃんらしいねーーその言葉で、わたしが友だちを裏切った、ということ自覚した。
 
 皿を片づけて、裕樹くんが帰る用意をしているのを見ると、どうしてか、裕樹くんを引き留めたくなった。わたしをひとりにしないで、と心の中では訴えていたけど、顔では笑顔をつくって裕樹くんを見送ろうとした。
 玄関先で裕樹くんがコンバースの靴に足を入れて、よろけてわたしの肩に掴まった。どうしたの? とわたしは笑ったけど、裕樹くんは笑わなかった。そのまま、手をわたしのうなじから後頭部にかけて這わせて、顔を引き寄せた。裕樹くんの口の中には、まだアルコールが残っているような気がした。
「ーーやっぱり、少し傷ついたかもしんない」
 唇が離れ、裕樹くんは冗談のように笑って言った。
「なっちゃんに否定して欲しかったわけじゃなかったけど。やっぱりなっちゃんには、心の中に誰かがいるんだなってわかって、傷ついたのかもしんない、俺」
 何を言っているのかわからず、わたしはぼんやりと裕樹くんを見ていた。

「なっちゃん、俺の手は離さないでいてくれる?」
 ーー俺の手を離さないでね。いつも怖いんだ。
 花火大会ではぐれそうになったとき、あの子はわたしの手を強く握りしめながら、そう言った。いつだってあの子は、臆病だったし、孤独だった。でも、それはお互いそうだった。
 ひとりでいたくないから、という理由で。ひとりで苦しみたくないから、という理由でーーわたしたちは、ふたりでいた。でもふたりでいるときのほうが、ずっと苦しかったし、その苦しみをお互い愛していた。
 目の前にいる裕樹くんが、初めてあの子と重なる。
 裕樹くんこそ、離さないで。
 かすれた声に乗せた言葉が、裕樹くんを安心させた。裕樹くんは、ふわっと笑い、玄関のドアを開けて、わたしをひとり置いて帰っていった。  
 

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