読書コンプレックス

 子どもの頃、本が嫌いだった。心底嫌っていたわけでもないのだが、なんとなく(違う空間)と思っていたところがある。会話文が古くさいと子どもながら(ダサい)と思ったし、情景描写があると、意識が飛んでしまう。なので通読できる児童文学は限られていた。せいぜい「ちびっこ吸血鬼」シリーズと「王様」シリーズくらいだった。
 作文も嫌いだった。これは心底嫌っていた。憎しみも混じっていたと思う。しかし小学生の宿題は作文ばかりである。毎度困り果てた。どうにかこうにか改行したり、「、」を異様に打ちまくって小細工を労して、枚数を稼いだ。むろん、私の作文は表彰されたことも、学校の新聞みたいなものに載せられたことも、褒められたことも、ない。
 小学生の頃は算数が得意だった。しかし、文章題でいつもつまずいていた。母に「これは本を読まないからだ」といわれたこともある。これみよがしに、児童用の伝記を音読したりした。しかし、本嫌いは直らなかった。
 いつどこで転機が訪れたのか。
 それは高校時代である。読書家の友人がいた。幼いかわいい顔とは別に、雰囲気が妙に大人っぽかった。その子の好きな作家に東野圭吾がいたので、友人と共通の話題を持とうと「白夜行」を借りて読むことにした。そのときの私は少し、その友人に憧れを持っていた。
 しかし「白夜行」は長い。本嫌いの私がとりかかるのに、そこそこ難易度が高かった。でも、(返却期限を破りながらも)読むことはできた。「白夜行」はそれまで私が読んできた本とは、まったく別の世界で、小説の堅苦しいイメージをいい意味で打ち破ってくれたものであった。
 初めて、(小説っておもしろいな)と思えた。
 それから大学に入ったこともひとつの転機だった。
 というのも、いっさい友達ができなかったのである。その頃から、私は心を病んでいて大学にいる学生たちに近寄れなかったし、こちらも変なバリアを張って近寄らせないでいた。病み具合がどの程度かというと、あまりにも暗い私を学内で見かけた知らない学生から心配され、「もし悩み事があったら……」とメアドを添えたメモをもらうくらいの病み具合だった。
 環境的には恵まれているはずなのに、孤独感は消えない。そんなときに、太宰治に出会ってしまった。ベストタイミングである。太宰治は、(わりかし)読書体験初心者でもわかりやすい文体で入りやすいということもあり、するすると読めてしまった。
(太宰治って、私のことを書いているんじゃないか……)とありがちな妄想も抱いたし、なにより「文豪の本を読めている自分」というのが誇らしくうれしかった。村上春樹も読み、ドストエフスキーを読んだら、もう(他のもいけるんじゃね?)という思い上がりがでて、無謀なことに新潮社の世界名作集をかたっぱしから読もうとした。さすがにぜんぶは読めなかったけれど、分厚い本を抱えてカウンターに出す喜びはあった。(これからこれを読む)という単純な喜びだ。
 でもとうぜん、そのときの私に理解できるものはなかった。だけど無理矢理通読した。そのうち、少しずつ(あ、これはこういうことか)という自分なりの解釈を得るようになっていった。
 読書コンプレックスというものは、今でも消えない。
 行間が読めない、情景描写で意識が飛ぶ、物事を深く考察することができない、など。
 それは、ひとと対したときに、ふと現れるものもある。(あ、今私空気読めてなかったな=行間読めてなかったな)という感じ。それだけに、子どもの頃から本に親しめているひとを見ると、単純に尊敬してしまうし、学校の勉強という基準で計るのとは別の「頭の良さ」がある、と感じる。
 最善はもちろん、子どもの頃から本を楽しいと感じることだろうけれど、私がそうであったように、それが難しい子どももいると思う。それが難しい大人だっているように。
 それで、殊勝なことをいうようだが、私は、「楽しい」「おもしろい」と思えるような読書体験を提供する側になりたい、と考えている。考えている、と書いたところで強烈に息苦しくなってしまうくらい、それは難しいことなのではあるが。
 読書コンプレックスはまだ消えない。
 消えないが、それでも本を楽しめている自分がいる。もちろん、苦しい読書はある。しかし、楽しい読書もむろん、あるのだから、本を読むことは続けられている。
 

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