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【掌編小説】2月生まれの彼のこと

 生理いつ来たっけ、とiPhoneを操作していたら、誤ってカレンダーを開いてしまった。すると、リボンで結ばれた箱のマークが目に入ってくる。2月25日――今日は、ひろと君の誕生日だった。
 ひろと君とは、大学生の頃知り合ってから、3年つき合ってわたしから別れを切り出した相手だった。わたしから、と言っても、ひろと君はすでに浮気を3回繰り返していて、4回目でもうこの子は心がひとつにとどまることはないんだな、と諦めて別れを切り出した。画面にひろと君の名前が表示されても、切なさを感じるにはあまりにも遠く離れてしまっている。すぐにわたしはカレンダーを閉じ、ヘルスケアを開いた。
 会社のトイレから出ると、廊下で山口さんに出会う。山口さんの手元にはバインダーファイルが重ねられていて、山口さんはそれを顎で抑えながらわたしに挨拶した。どうも。すみませんが、ドアを開けてくれません? わたしは急いでオフィスのドアを開けて山口さんを入れさす。山口さんのワイシャツの背中には、鰺のひらきみたいな汗の痕があり、それを眺めながら巨体の山口さんが中に入るのを見送った。まだ2月なのに、汗をかいている。
 そういえば、ひろと君は寒がりだった。夏なのに、長袖のタンガリーシャツに厚いカーディガンを羽織っていた。はじめは、日に焼けるのが嫌でそうしているのかな、と思っていたけど、講義を受けるときもその格好でいたので、ただの寒がりだ、と遅れて気づいた。
 冬も好きじゃないけど、夏もあんまり……ね。電車とかお店とか冷房ガンガン入れるから、油断ならないよね。半袖なんか御法度だよ。
 そうわたしに同意を求めたけど、そのときわたしは、上はノースリーブに、下はサンダルを履いて講義を受けていた。えー、そんなに? とわたしは深く考えずに返した。共感を得られなかったひろと君は、えっ、と一瞬たじろぎ、女の子って寒さに弱いよね……? とおそるおそる彼が知っている一般論を確認しにきた。ひろと君の机の周りの女の子は浅く同意していたけど、ひろとほどではないよ、夏でもカイロなんて持ち歩かない、と次々と否定しにかかった。ひろと君はカーディガンからちょっと出した指先でカイロをわしわし揉みながら、す、すみません、となぜか謝っていた。
 4回も浮気したことを除けば、ひろと君はかわいい子だった。
 春が来て桜の花が咲き乱れる頃、大学内のベンチでひろと君はお行儀よく体育座りをして春の日差しを浴びながら、お酒を飲んでいた。やーい、不良! と声をかけると、はると君は手招きをし、矢野さんも一緒に飲もうよ、と誘った。わたしははると君の隣に座り、はると君が飲んでいた缶チューハイをもらって、それを飲んだ。口に含む瞬間、(あ、これって間接なんとかっていうやつ……)と思ったものの、はると君があまりにも、春風に舞う桜の花びらが優雅に回転するさまを、うっとりしながら見ていたので、気にせずぐびぐび飲んだ。少し上を向きながら心地よく目をつむるひろと君の顔は、ゴマフアザラシが笑った顔に似ていた。
 それから。デスクに座り、パソコンをスリープ状態から起動させる。画面に映る表に伝票に書かれてある数字を入力しながら、はると君との思い出を手繰りよせる。それから、わたしとはると君はつき合った。どちらから好きって言ったのだっけ。お互いの気持ちを確認するよりも先に、わたしたちは手を繋いだり、キスをしたりしていた。そうしていたのは、はると君が寂しがり屋だったからだ。
 俺、お父さんいないんだ。
 飲み会の帰り、ふたりで電車に乗っていると、急にはると君から手を繋いできた。どうしたの? と訊くと、そう口にした。俺、お父さんいないんだ。事故で……亡くなった。このことは矢野さんに伝えなきゃと思って。だから、大学も奨学金と母さんが働いた金でどうにか入らせてもらっている。正直、大学に通うのも、罪悪感がある。そして、情けないよ。酒を飲んで遊んでいる自分が。
 アナウンスが次の駅に着くことを告げた。なおさら、ひろと君の手の強さが増す。ときどき、どうしようもなく、寂しくなる。就職が無事決まらなければ、これからどうなっちゃうんだろうって考えて。俺もお母さんも、ばあちゃんも。そういうこと、ひとりきりの夜になると、ずっと考えて、朝を迎えることがある。だから――酒でごまかしたりする。でも悪いよね、こういう癖。
 次の駅でふたりとも降りた。でも、その停車駅ははると君の最寄り駅ではない。帰らないの? そう訊くと、そのへんぶらぶらしてく、と言う。バカなの? 知らないよ、その状態で変なひとに絡まれて財布盗まれても。そしてはると君は笑った。――日本はそんなに物騒なところじゃないよ。
「矢野さん、これも頼む。至急ね」
 画面の上から書類が渡される。書類を引き受けると、永井さんの渋い横顔が見えた。いつもこのひとは目を合わさない。ひろと君は――あの夜、ひろと君を連れてわたしの部屋に上がらせたとき、気詰まりなくらい、目を据えてきた。お酒を飲んだあとのひろと君はいつも、わたしの顔を、ひとつひとつの部位を検分するように眺めてくる。顔を逸らしたら、腕を引っ張られ、キスをされた。
 矢野さんの顔、好きだからだよ。
 どうしてそんなに見てくるの、とはると君の腕に抱きしめられながら、抗うように言った。そしたら、はると君はわたしの顔が好きだからだよ、という。小さなうさぎみたいで、ときどき何かに怯えるように震えて、かわいいと思うよ。さらにはると君はからかった。わたしははると君はゴマフアザラシみたいだ、と強がるように言った。よく言われるよ、それ、と彼は答えた。圧倒的にはると君のほうが、余裕があって優勢な感じで。
 それから。画面から目を離して眉根を指先で押さえ、目薬を差した。隣で床を踏みつけるヒールの音が響き、机の上にカップみたいなものが置かれる軽い音がする。涙をティッシュで拭ったあと、その先を見ると、中心に白い泡が広がっているカプチーノだった。矢野先輩、お疲れ様です。これ、どうぞ。――カプチーノを運んでくれたのは、入社2年目の緒方さんだった。ありがとう、と微笑むいっぽうで、心が少しだけ波立った。黒く大きい、意志のはっきりしている緒方さんの眼差しは、ひろと君が初めて浮気した女の子に似ている。緒方さんみたく、自信を持ってひとに優しくできるような子だった。
 寂しかったんだよ、ずっと。ミナミには仕事があるのだろうけど。
 ミナミ、と名前で呼ばれるようになってから半年で、ひろと君は浮気をした。原因は大学を卒業してわたしは無事内定をもらったのに、ひろと君は内定をとれず、週に3、4回コンビニでバイトをするだけだったこと。寒がりで寂しがり屋のひろと君は、わたしの時間が空くのを待つことに耐えられなかった。そして、バイト先で出会った、当時大学生だった片桐さんの部屋に上がり込み、身体を温めて合っていた。温め合っていた、とひろと君はわたしに無表情で言った。その言い方から、仕事をしているわたしへの嫉妬、そして悪意を感じ取った。
 小さい男だな。小さく呟いたあとカプチーノをひと口飲み、熱さですぐ口を離した。上顎の裏が、ひりひりする。でも――、ひろと君がわたしにとって、それだけのひとではなかったことは今では認めている。ある冬の日、風邪で寝込んでいると、予定より早く生理が来た。買い物しに行くのめんどくさ、と思っていたら、バイト終わりに見舞いに来てくれていたひろと君が「何センチのが欲しいの?」とわたしに訊いて、それをiPhoneにメモして、ナプキンを買ってきてくれた。ミナミは、生理重いから。ちゃんと温めなきゃだめだよ。そう言って、わたしの毛布の上に自分のダウンを被せてくれた。自分からナプキンを買ってきてくれるひとは、後にも先にもひろと君だけだった。
(ひろと君なら、ドラッグストアで生理用品の棚眺めても、違和感ないけど)
 目を閉じて半分眠っているだろう、課長の頭の上にある電子時計に目を向ける。4時30分。ひろと君は何時に生まれたのだろう。いつだったか、魚座は寂しがり屋なんだって、とひろと君に言ったら、女の子ってなんで根拠もない占いが好きなのかなあ、と呆れながら笑っていた。でもまあ、寂しがり屋で合っているけどさ、とも。
 電子時計の針が進む。一秒、一分、五分、と。
 あれから遠くなってしまったけど、ひろと君のことを今でもときどき思い出す。今は悲しい、切ない、というより、いとしい。それが思い出になれた、証拠なのかもしれない。

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