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いつか消滅するとしても EP.6

「――弘子が心療内科にかかるようになったのって、いつだっけ」 
 身体に合わないカーディガンを羽織った優は、袖から見せる小さな指でどんぶりを支えながら、食べている。顎についた米粒も気にせずに、僕の問いに視線を宙に浮かす。
「卒業して就職してからだった」
「何年前になる?」
「……さあ。弘子が手首の写真を送ってきたのが、俺が研究所に入所した年だったのは覚えている」
「……もう5年は経っているんだな」
「それよりも、多い時間を俺らは弘子とつきあっているんだよ」
 だから、チャラだよ。そう言葉にしなかったが、優は僕の良心を感じとっていたのだろう。僕たちが弘子にしてあげられることは、この曖昧な関係を続けることしかできない。
 でも、それは弘子に対する優しさではあるけど、愛ではないのだ。
「弘子から、今日LINEが来た」
 事務的な口調で、僕は優に自分のスマホの画面を見せた。――明日の夜、空いている? そのメッセージの前のやりとりは、弘子が最近職場で自分を嫌っているという同僚の話だった。でも、それを語る弘子の文は、話としてまとまっていなかった。職場の休憩時間に同僚はいつも、弘子に嫌なことを次々と言ってくる。「かわいい顔をしていてうらやましい」「男の人に好かれそう」という言葉を投げかけ、弘子の羞恥心を煽ろうとする。――そういう話をしたら、同僚は他の社員には話しかけるのに、自分のことは一切無視して、話を交わしたことがない。露骨に嫌っている態度を示す――そんなふうに、相反するエピソードを交互に送ってきて、僕は正直、弘子の話はつくり話なのではないかと疑った。
 そんなに嫌だったら、弘子もそいつと一切関わらなければいい。
 話を終わりにしたくて、そんなふうに軽く突き放すメッセージを返信した。しばらく経ってから返ってきたのは、「明日の夜、空いている?」だった。
「――俊介の好きにすればいいさ」
 冷や水を飲み干し、優は軽くげっぷをして、腕を頭の上に持ち上げて伸びをした。もし、僕が弘子と会ったとしても、優は嫉妬なんかしない。会っても会わなくても、僕と優の間にあるものは変わらない。変わらない――そう思っていた。
 店から出て、優と住宅街を歩いた。古い水銀灯の下で、優がほどけたスニーカーの紐を結ぶために、しゃがみこむ。僕が優のつむじを見つめているうちに、頭の中で「ほんとうに変わらない?」とささやく弘子の声が聞こえる気がした。
「わりい、俊介」
 靴紐を結び直し、優が笑って僕の顔を仰ぐ。笑うと桃色の歯茎が見える。それから、優は僕のほうに手を伸ばした。わりい、といったのは待たせたからじゃないのか、と思いながら優の手をとり身体を引っ張りあげる。優は、はしゃぐ子どもそのものの声を発しながら、身体を寄せ、僕の指に自分の指を絡めようとする。
 そのとき、僕はとっさに身を離した。
 あ、と僕が口をひらいたのと同時に、優の顔から表情が剥がれ落ちる。傷つけた、優を。そう思ったのに、僕の指は優の指から逃れようとする。優は目を伏せ、つながれなかった手を、ぱんぱん、と軽く叩き合わせた。
 ――ほんとうに変わらない?
 今度は、優の声でささやかれる。弘子との問題では、変わらなかった。 ――だけど、今は違う。優の身体が変わってから、僕は今まで通りの欲情を感じることができなかった。
「――やっぱり今年も、弘子の誕生日会やってやろうよ」 
 曇って薄明るくなっている夜の空に散った、星と星の隙間をなぞるように、指を虚空に揺らして、優は遠くに響く声でいった。僕はその場に留まったまま、先を行く優の後ろ姿を、目を細めて見ていた。優がふりかえって笑いかけた。手を隠すほどの袖をふって、白く揃った歯を少しだけ覗かせて。

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