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いつか消滅するとしても EP.9

 俊介って呼んでいい?
 僕と弘子が友だちだといえるようになったのは、たぶんあのときだろう。サークルの飲み会で、トイレで吐いた弘子を介抱し、タクシー乗り場までおぶってやったとき。弘子は、僕の背におぶられながら、首もとで「長瀬くんの名前ってなに?」と聞いてきた。夜の街の通りで、空気のように流れた弘子の声は、身体が密接している僕にしか聞こえなかった。
「俊介」
 弘子が下がってきたので背負い直しながら、僕は言った。
「俊介……俊介って呼んでいい?」
 温かい息とともに、遠慮がちに弘子は尋ねる。信号が赤になって、僕は少しだけ首を弘子のほうに向けた。
「別に好きなように呼んでいいよ」
 僕からは弘子の顔は見えないけど、自分の肩に触れた髪が揺れ、弘子が笑っている気がした。ありがと。わたしのことは弘子って呼んで。じゃあ、弘子。……ありがとう。
 それから僕は、弘子をタクシーに乗せた。あんま、無理すんなよ。そう言ってタクシーのドアを閉めた。薄暗い窓の向こうで弘子は、小さく僕に向かって手を振っていた。翌日、弘子と一緒にとっている講義で出くわし、「おはよう。俊介」と、今までにない笑顔で挨拶された。こいつ、こんなに明るく笑うんだっけ。と、拍子抜けした記憶がある。

「俊介、ビールと酎ハイどっちがいい?」
 掴みどころがないのは、今でも同じだ。ビール、と答えてから、二本あるってことは準備していたのか、と思わざるを得ない。いつもなら優と一緒に来るので、ひとりで弘子の部屋に上がることはないから、なんだか落ち着かない。やたら脚を組み直したりしている。
「アサヒのドライ好きだったよね」
 僕の手元の赤いマグに注ぎながら、弘子は言う。伏せた顔を見ると、学生時代の男たちが弘子に興味を持った理由がなんとなくわかった。だからと言って、弘子を好きになることはないのだが。
「単純に飲みやすいから」
「だよね。わたしも好きなんだ」
 テーブルに向かい合う形で弘子は座った。弘子の部屋に入ってから、弘子と僕はなぜだか視線を逸らし合っている。まるで、意識し合っているみたいだ。
 料理が下手だ、というのが学生時代からの弘子の小さな悩みではあったけど、トマトカレーは別段変な味ではなかった。多少、トマトの味が勝って酸味が強くなっているけど、とくに気になる程度でもない。僕は、うまいとも言わずに、黙々と食べた。弘子もゆっくりスプーンを動かして、何も話さなかった。
 すべて食べ終わったところで、
「洗い物は俺がやるから」
 と立ち上がり、弘子の分も手にとり、キッチンに立った。弘子は、いいのに、と言いながらうれしそうな顔をし、僕の傍に立つ。僕は弘子に見られながら、皿を洗い、とたんに自分自身に嫌悪感が募った。なぜ? と自分に問いかけた。なぜ、僕は弘子の部屋になんて上がったんだ? 
 シャツの袖が水で濡れ、僕は蛇口を締めて、捲り直す。
 ふいに、鮮烈に優の姿が思い浮かんだ。子どもに変化する前の、優の姿。研究室から帰って来て、玄関に座り込む優。疲れたー、飯食いたい。そんなことを言いながら、僕が自分のもとまで来てくれるのを待っている優。めんどくさいやつだな、と思いながら、優のところまで行ってあげると、いつも僕の身体に背をもたれかける。ついでに肩揉め、というように手で自分の肩をとんとんと叩く。僕は笑い、「俺は召使いか」と小言を言いながら、優の肩を揉み始めると、優の顔が面白いくらいふにゃふにゃになっていく。そこでいつも、優と今日もセックスできるんだなと思ったりした。
 変わっていない。優の心は、きっと変わっていない。なのに、こんなときに思い出したくなるのが、優の今の姿ではなく、過去の姿だということが、自分で許せなかった。そして、先ほどの「なぜ?」の問いの理由をそこに見つけてしまう。弘子の部屋に上がったのは、今の優と一緒にいたくないからじゃないか。
「俊介、ありがとう」
 食器を片すと、弘子は僕の袖を捲った腕に触れた。一瞬、腕を引っ込めたが、それでも弘子は僕の腕に絡んできた。
「……別に、そういうつもりで来たわけじゃ」
 ない、ということを弘子も知っているはずだ。
「わかってるよ。わたしの自分勝手な思いだってことも」
 今まで弘子と関わってくるなかで、弘子に直接好きだと言われたことはあまりない。こうして、弘子が言葉にしてくるのも、久しぶりだった。
「でも俊介は……優とは違うでしょ?」
「違うって何が?」
「まったくできないってことでもないでしょ?」
 弘子の腕を払った。弘子の言っている通り、僕は優とは違う。根本的に、女をまったく受けつけないわけじゃない。あのとき、好きになったのが、優だっただけ。好きになった優が、たまたま男だっただけ。でも、それがどうしたっていうんだ?
「ごめん、怒らせるつもりはなかった……」
「いや、いいよ。でも今日は帰る。これ以上用はないし」
 抑えていても、自分の声に怒気が混じっているのがわかった。テーブルに置いたスマホを拾って、玄関に行こうとすると、後ろから弘子に抱きつかれる。あえて声を荒げようかと思ったが、それはできなかった。僕の背中に額を当てている弘子から、すすり泣く声が聞こえたからだ。
「ごめんなさい……」
 僕の両腕を弱く掴む弘子の手が、がたがた震えている。
 ごめんなさい。俊介だけからは、嫌われたくないの。他の誰からも嫌われてもいい。でも、あなたから嫌われたら、わたし自身がばらばらになっていって、立っていられなくなるの。自分でも、どうしたらいいのかわからなくなる……。
 弘子は、泣きながら小さな声で本音を洩らした。
 どうして弘子は、こんなにも弱い姿を僕に見せつけるのだろう。そして弱い弘子を見れば見るほど、僕は弘子の手を離すことができなくなってしまう。
「別にいいよ。別に、俺は弘子を嫌っているわけじゃないから……」
 それを言うのが、精一杯だった。弘子の方を向いたら、弘子はさっと顔をうつむかせて両手で顔を覆った。玄関先で佇みながら、僕は弘子の姿を眺めていた。今日の弘子は、紺地に赤い花模様の散ったワンピースを着ている。ふだん会うときは、だいたいシャツに緩いパンツを履いていることを思い出した。備えていた缶ビール。得意ではないのに、作ったトマトカレー……、それらが一気に僕の頭の中で繋ぎ合わされた。弘子をこんなふうにさせたのは、誰だ? と問い詰める自分がいる。
「泣くなよ」
 泣かれるとつらくなるから、弘子を悲しませた自分を責めてしまうから、なんて卑怯な言い草だ。でも、言わずにはいられなかった。泣くなよ、そんなふうに。
「ごめん……、でも止まらなくて。俊介を前にすると心がやわくなって……ごめん」
 弘子は僕の胸にそっと額をつけた。そして僕のシャツをぎゅっと握りしめた。そこにしがみついていないと、自分自身がばらばらに解けてしまうかのように。
 弘子の肩に手を置きながら、優の顔が目の前でちらつく。
 耳の裏側に舌を遊ばせたときの、優のくすぐったそうな顔。腰から下まで指を這わせたときの、優の気怠い目つき。果てたときの、優の疲れが混じった、でも本当に充足しているような顔――。
 僕は優を裏切るのだろうか?
 ふいに何かにとりつかれたように、残酷な感情が襲ってくる。弘子を抱き寄せて、唇にキスをした。弘子は驚き目を見開いて、僕の何の感情も浮かんでいないだろう顔を見つめたけど、すぐに微笑んだ。狂うってこういうことなんだろうな。見つめ合った僕と弘子はきっと正気とは言えなかった。もう一度、弘子の顔を引き寄せ、キスをした。弘子は少し苦しそうな声を出したけど、僕は構わず弘子の唇の中に舌を入れ、優とキスをするときのように、動かした。弘子の服の中に手を入れたときも、優のことを思い出していた。優のことを思い出すことで、僕は容易にそれができた。
 今、僕は優を裏切ることができている。
 自分が二人いるような錯覚がした。弘子の身体に触れている僕と、その僕に遠くから指示を出し操作する僕。
 先のこととか、善悪のこととか、考えなかった。でも、衝動ではなかった。ただ、僕は確かめたかった。優じゃなくても、僕は満たされるのか? 優を愛せなくても、誰かを愛するふりができるのか? ――弘子を喜ばすためというよりも、その答えが知りたかった。
 とつぜん、弘子が「痛っ」と声を上げた。僕が弘子の下着の中に手を差し入れて、指をうまく入れられなかったからだ。
 その弘子の声で、一気に意識が明瞭になった。弘子の身体から指を引き抜くと、指先と指先に弘子の体液が張り付いて、糸が引いていた。僕はそれを「汚らわしい」と感じた。
「ごめん。焦ってしまった」
 と笑ってごまかした。
「大丈夫。焦るなんて、俊介らしくないね」
 弘子はうれしそうだった。焦らせているのは、自分だと思っているから。
「やっぱり、やめとくわ。少なくとも、今日はうまくできそうにない」
 今日は、というのが余計だったなと後で思った。弘子に次があるのを期待させてしまう。中断されたことに、弘子の顔は一瞬陰りを見せたが、でもすぐに元通りになり、「わかった。続きはまた今度だね」と言った。ほら、弘子の中では僕との「続き」がある。
 弘子の部屋を出る直前、トイレを借りた。水だけ流して出た後、洗面台で念入りに指先を洗った。さっきまで弘子の体液がついていたところが、僕の指先をどんどん腐らせていくようなそんな強迫観念が襲っていた。

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